論文・エッセイ

SOHOの蕎麦屋、911とスーザン・ソンタグ

「君、もう来なくていいよ。君は学者なのよ。ウエイターじゃないのよ」

ニューヨークのSOHOにある高級蕎麦レストランのオーナーにそう言われたのは先週の事だった。2ヶ月間、見習いウエイターとして雇ってもらった後の事だ。私の犯した小さなミスが重なった結果だろうが、三ツ星レストランのオーナーには、そのミスも目に余ったのだろう。

キュレーターとして活動しているはずの私がこのレストランで働き始めたのは、ここがスーザン・ソンタグのお気に入りのレストランと聞きつけたからだ。私はどうにかして、大学院在籍中に書き上げたスーザン・ソンタグ批判の論文を彼女に手渡ししたかった。この論文は、私が本気でリサーチして書き上げた、正真正銘の力作だ。

平和運動に携わってきた私は、なぜソンタグがNATOによるユーゴスラビアの空爆を支持したのか、長い事疑問に思っていた。また、なぜ彼女が日本とアメリカでこれ程支持されているのか疑問に思っていたのだが、調べていくうちに、彼女が良かれと思ってやっている事が、現状を把握しきっていない当事者の主観的、そして独善的なものとして私には理解されてきた。

彼女は新聞で報道された虐殺という言葉に非常に敏感に反応し、被害者と目したボスニアの支持に回り、セルビア政府をファシスト政権と銘打った。セルビア軍の虐殺の根拠として、彼女はロイ・ガットマンという無名の記者が書いた強制収容所と虐殺の記事を上げているが、この記事そのものがでっちあげだった、という事も私が調査していく上で判明した。その背後には、裏で操っている情報組織がワシントンにあり、それに踊らされてしまったのがソンタグだったと分かったのだが、私が行った限りのリサーチでは、その点に触れている本はアメリカでは見つからなかった。

この事実に彼女は未だ気が付いてないのではないか、もしそうだったらそれは問題だ、何とかして本人にこの事実を伝えたい、と思った。

しかし、ソンタグは再発したガンと闘病中であり、私が働いている2ヶ月の間、遂に一度たりともレストランに顔を出す事は無かった。

クビを告げられた直後、私はレストランの社員用更衣室に隠してあった論文を出してオーナーにこう切り出した。

「あの、どうしても聞いてもらいたい話があるのです。実は、私がこのレストランで働き始めた理由はソンタグに会いたかったからなのです」

目を丸くするオーナーに向かって、私は続けた。ソンタグがNATOの空爆を支持した事についてずっと疑問を持ち続けていた事、ユーゴスラビアの現地に行ってリサーチして来た事など。そして、彼女にこれを伝えたいという気持ちも。

「あなたの熱意は分かったけれど、私にはどうにもできないわ。ソンタグさんは私の個人的なお客さんなのよ。」

そしてオーナーはこんな話をしてくれた。

911のテロの後、ワールドトレードセンター周辺のレストランや商店などは客足が伸びず、壊滅的な被害を受けた。事件後のSOHOは1週間経っても悪臭が消えなかったと言う。このSOHOに位置するレストランも例外ではなく、事件後数ヶ月はひっきりなしに来ていたはずの客足が途絶え、困窮してしまった。

そんな矢先、レストランのオーナーは御得意様に、こんな内容の手紙を送ったと言う。テロ以降、私共のレストランは客足がめっきり途絶え、経営に苦労している。しかし、私は店を早く閉めたりする様な事はしません。いくらガラガラの店内でも、夜遅くまで明かりを灯していますから、いつでもお立ち寄り下さい、と。

その手紙に真っ先に反応したのがソンタグであった。彼女は「あなたのレストランはしっかりしているわね」と言い、それから店がかつての盛況を取り戻すまで、週に2回はこのレストランに足を運んでいたと言う。また、同じく御得意さんのオノ・ヨーコ氏もレストランの経営に貢献しようと、息子のショーンのバースデーパーティをレストランを貸しきってここで開いたと言う。

「あなた、私とお客さんとの関係は一日二日で出来るもんじゃないのよ。もう、私は彼らに返しても返しきれないくらいの恩があるのよ。だから、私がこれに関してできる事は何もないわ。もしあなたがここでこの論文を渡せる事があるとしたなら、それは長年お客さまと接して、名前を覚えられて、あなたが居ない時にお客さんから『彼は今日はどうしたの?』って声を掛けられるくらいにならなきゃ無理なのよ。分かった?」

オーナーは、いかにもゲイらしい口ぶりで、私にこう言った。そして、彼は今でもソンタグのお見舞いに行っている事、その際には花束を病院の受付に渡すのみで、本人を気遣うあまり本人に会いに行く事はない、等語ってくれた。

しかしこのエピソードは、ソンタグの人柄を示すとても良いものだ。

911テロの被害で困っている人がいるから、それを助ける、それを彼女は主観的に行ったのだ。しかし、冷静に考えると、911のテロ以降、ニューヨーク中のレストランが苦労していた。911の影響で苦労していたのは、このレストランだけではない。つまり彼女の行動はニューヨークのレストランを支える行為であったのではなく、彼女の友人を助ける為の行為だったのだ。

これはソンタグがボスニア支持に回った時の出来事に似ている。彼女はボスニアを支持し、セルビア側を著書の中でファシストと呼んだ。彼女が支持に回った、当事のボスニア首相のイゼトベゴビッチが強硬な民族主義者であったにも関わらず。

サラエボがセルビアの包囲攻撃で困っているから、それを助ける、それを彼女は主観的に行ったのだ。しかし、冷静に考えると、サラエボ側を支持し、 NATO軍によるセルビア空爆する事を支持する事は、そのユーゴスラビアという主権国家そのものを解体してしまう行為でもあり、またセルビア側にも死傷者が出る。つまり彼女はサラエボ、またはサラエボの友人を助ける為にこれを支持したのだ。

今ユーゴに介入しなければもっと多くの死者が出るから、多少の死傷者はやむを得ない。全ては死傷者の数の問題であり、その数の少ない方を選ぶ、というのが彼女の基本的なスタンスだ。私が個人的に気になるのが、これは私がしばしばアメリカで耳にする日本への原爆投下の正当性を示す為の議論に似ている点だ。つまり、原爆を投下しなければ日本はまだ戦っていただろう。もし本土決戦をしていたら、死傷者の数は50万人に上っていたはずだ。だから、原爆投下は少ない死傷者で日本を降伏に導いた合理的な勝利のシンボルだ、という理論である。

しかし、そこで暴力が起こっているのが問題だ、という議論はここにはない。またその予測された数字が正確なものかどうか、もちろん見当もつかない。また、この理論を死傷者の前で言えるのだろうか、と言えば、もちろんノーだろう。

また、ユーゴ紛争のその先には、セルビアを攻撃しておきながらコソボを独立させない、というヨーロッパの戦略性の問題もある。コソボの独立を認めてしまったら、同じくヨーロッパのバスクやチェチェン等の分離独立も認めなければならなくなるからだ。

これ以上はきりがないのでやめておくが、私はソンタグはサラエボにて当事者性の罠にはまったと私は考えている。彼女はやはり主観的な情念で動く、演劇人なのだ。彼女は冷徹な哲学者ではない。また、それがアメリカと日本の美術界でもてはやされる一つの要因なのかもしれない。

そのソンタグが、コロンビア大学の美術史家200人に対して行った調査「歴史上最も影響力のある美術批評家は誰か」で、認識度という点で1位を獲得してしまった点に、私はアメリカという国の論理性の欠如を感じる。それは私がニューヨーク大学の大学院に滞在中に常々感じていた事だ。または、歴史上という言葉は、多くのアメリカ人にとってアメリカ独立以降の歴史、または美術史家にとっては60年代以降の美術の話なのかもしれない。ここアメリカでは、アートは静かな論理性の産物ではなく、主観的なパフォーマンスの集積なのだ。

ソンタグがアフガニスタンの空爆に反対し、アメリカ国内でオサマ・ビン・ソンタグと蔑まれた時、小さな心の拠り所となったのがこの蕎麦レストランだったのかもしれない。またそんな彼女を笑顔で歓迎していたのが、私をクビにしたオーナーであったのだろう。

私はSARSが流行した時、ニューヨークのチャイナタウンにSARSが上陸しているとの噂が広がり、しばらく行くのを避けていた。その後、それがどうやらガセネタらしく、チャイナタウンの風評被害は相当なものだ、というのを新聞記事で読んだ時、自然とそれからチャイナタウンへと足を向ける機会が増えた。この私の単純な行動にも、一定の主観性が含まれているに違いないが、果たしてそれは本当に正しい選択だったのか、ふと自問してみた。

主観と経験などの問題から当分私は逃れられそうもない。また、ニューヨークはこういった問題を考えさせてくれる街なのかもしれない。

スーザン・ソンタグの回復を心から祈る。