論文・エッセイ

ワシントン・モナムール スミソニアンでのエノラ・ゲイ展オープニング潜入ルポ

2003年の12月15日月曜日、ワシントンDCのスミソニアンにある航空宇宙博物館の別館ウドヴァール・ヘージーセンターにてエノラ・ゲイ展のオープニングがあり、ニューヨークから足を伸ばして行ってみた。

今や、エノラ・ゲイは広島に原子爆弾を投下したという歴史的意味合いのみならず、日米間のパワー・バランスや関係を考える上で、貴重な資料となっている。終戦50周年を祝う目的で作られた1995年のエノラ・ゲイ展は、エノラ・ゲイとその投下した原子爆弾リトルボーイの威力、すなわち広島での被害を同時に展示しようとしたスミソニアン側に退役軍人から強力な政治的圧力がかかり、展示開始を目前に頓挫してしまった。

今回の展示は、説明によるとライト兄弟から始まった航空技術の発展を技術的発展という観点から展示しようとしたものであると言う。空港ほどの大きさの建物に、戦争に使われたミサイルや航空機、また最近役目を終えたコンコルドなどが所狭しと展示されている。しかし、航空機の発展の歴史をテーマにしているものの、展示のメインは第二次大戦中の戦闘機であり、フロアの大半を埋めている。ナチスの戦闘機などに紛れ、日本からは人間魚雷・桜花(おうか)などが展示されていた。航空機のテクノロジーを展示する、というミッションにも関わらず、9・11テロの残骸(ワールド・トレード・センターの破片と炎上するペンタゴンの写真)を展示してしまったりする辺りは、やはりアメリカ。自ら作ったスタンダードをこんなにも分かり易く崩して平然としていられるのには恐れ入る。

このウドヴァール・ヘージーセンターの最大のスポンサーがロッキード・マーティンだというのは皮肉な話だ。田中角栄がロッキード事件で消されたのは、中国と日本が親密になるのを防ぐための共和党の画策だという話があるが、それも尤もと思えてくる。実際、ロッキード事件が発覚したのは、角栄側からたまたま間違って共和党議員の所に郵送されてきた郵便物を共和党議員がうっかり開けてしまった事から端を発している。アメリカでは間違って郵送された郵便物を開けるのは重罪であり、こういった偶然が重なることは考えずらい。当時の日本でロッキード事件の真相を見極められていたのは、おそらく極右と極左のインテリくらいだったと思われる。

午前10時のオープニングでは、地方の高校生のブラスバンドがリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」を演奏していたが印象的だった。私はこの曲をアメリカで聴く度に、アメリカにカルチャーは存在しえるのか、と不安になる。ヒトラーがニーチェの超人思想に基づき、シュトラウスに作らせたという歴史は、ここではかき消されてしまっている。同様の事が、原爆、またエノラ・ゲイについても起こっていると私には感じられた。

また、オープニングが月曜日という事もあり、ほとんどの来館者が定年後の老人だった。ベトナム戦争の退役軍人の数も多く、彼らはバッジやら帽子やらをかぶっているのですぐ見分けが着く。顔つきからして、今回のオープニングが楽しみで仕方ないといった感じだ。

その後、厳重な警備を通り抜け入館し、館の中心に据えられているエノラ・ゲイを見た。滑々とした銀色の胴体が印象的な、B-29型の大型爆撃機だ。会館後すぐ、午前10時30分ごろから抗議活動が始まり、ヒロシマからの被爆者10人ほどを含む200人ほどの人たちが写真を抗議活動を始めた。

”エノラ・ゲイを展示するのならば、原爆の被害もちゃんと展示すべきだ!神よ、無実の人たちを殺した我々を許したまえ!”、と平和活動家が叫ぶと、保守派の来訪者が”GO HOME!”と凄い形相でやり返す。でも、抗議活動している人たちの方が200人ほどいて人数的に優勢なので、”Go  Home!”と叫ぶ人保守派の人たちの反発も単発的なもので終わってしまう。また、GO HOME!と叫んでいる保守派の人たちは、マスコミのカメラが回ってくるとふさぎ込んでしまうのが印象的だった。

しばらくすると、2人のアメリカ人の老人が、赤い色のついたビンか何かを投げて、それが床に散らばった。その後すぐ二人は警備員に取り押さえられたのだが、報道によると、老人はオハイオ州に住むトーマス・サイマー73歳とジョージ・ライト55歳との事。しかし、この二人を除くと他の抗議活動をしている人たちは比較的冷静であり、とても平和的な抗議を行っていた。

このエノラ・ゲイ問題で見えてくるのは、エノラ・ゲイと原爆に対する日米間の温度差だ。日本では、また世界では原爆は使ってはいけない大量破壊兵器であり、忘れる事のできないものだ。しかし、アメリカでは第二次世界大戦を終結させたターミネーターであり、アメリカの技術の終結、と誇りにしている人もちらほらいる。もちろん原爆を落としてすまなかった、と思っているアメリカ人も少なくないが、一般的には半分忘れられているかのようだ。また、日本と違い、アメリカでは原爆についての教育がほとんどされていない。ヒロシマで何が起こったか知らない人も少なくない。エノラ・ゲイという名前を出して、それが何かとピンと来る人は、ニューヨーク大学の大学院ですら数えるほどしかいなかった。

こんな事を考えていると、アラン・レネとマルグリット・デュラスのHiroshima Mon Amorのオ−プニングを思い出す。

男:You saw nothing in Hiroshima. nothing.
女:I saw everything. Everything. The hospital, for instance, I saw it. I’m sure I did. There is a hospital in Hiroshima. How could I help seeing it?
男: You did not see the hospital in Hiroshima. You saw nothing in Hiroshima.

広島で被爆した人にとって、経験をしていない人に何かとやかく言われるのは許しがたい事なのだろう。人間の経験の重さを思い知らされる。

ヒロシマからやって来た被爆者へインタビューしてみた。ここに全文を載せてみたいと思う。

”私は今東京に住んでいるんですけれど、1945年の8月6日に広島で原爆に潰されましたが、その時に、エノラ・ゲイを見ました。で、今日また再びエノラ・ゲイに会えるとは、夢にも思いませんでした。やっぱりこれね、見た瞬間には、思わず怒りがこみ上げてきましたね。なぜって言うのはね、原子爆弾一発で14万人の人を殺しましましたがね、その65%がね、いわゆる弱者、子供、母親ね、老人、それから中学生、幼い子供達だったわけです。怒りがこみ上げてくるというのはね、勿論そのアメリカに対してというよりかはね、人類がね、こういうものを作った、使ってはいけない兵器を作ったというその怒り、でその時に全然なにも知らないまま殺された人たちのやっぱり無念さがね、一度にこみあげてきた。だから、こういう事は二度とあってはいけない、被爆者は被爆者を 2度と作らないない、というのが戦後58年間のずっと願いですから。せっかく、こうしてね、無事に復元されたのであれば、その被爆の実相をアメリカの負の遺産としてね、やっぱりきっちり明らかにして、両方並べてみるのが真実だと思います。”

話は変わるが、私はワシントン滞在中、友人のRの家に滞在させてもらった。彼女はインテリヒッピーのジャーナリスト兼アーティストでアメリカとフランス育ち、ムンバイ、ハバナ、モントリオールに留学経験のある才女だ。父親はゴチゴチの共和党員でフリーメーソンのメンバーでもあり、部屋にはいくつもレーガンとの会談の様子などの写真が架かっていた。また、部屋にはシャガールやディエゴ・リベラの本物の作品が架かっており、こういった家庭がアメリカではアーティストのパトロンをしているのだ、という一面も見え、複雑な気分だった。実際、Rの父親はある有力な美術館のボード・オブ・トラスティーを務めている。そんな家庭があるという事実や、私を無垢な気持ちで”Welcome!”といって迎えてくれるその家族を目の当たりにして、私はアメリカという国の懐の深さ、そして複雑さを強烈に感じた。

たまたま私が滞在している間にサダム・フセインが捕らえられたという事もあり、ワシントン中その話題でもちきりだった。サダムを死刑にするかどうかでFOXニュースをつけっぱなしにした家の中で議論が楽しそうに弾んでいるのが、私には耐えられず、つい「アメリカはイラクがクウェートに侵攻しても攻撃しないという秘密条約を破ったのに、そういった問題は犯罪だという議論にならないのか」と口走ってしまった。すると、Rの父親が不機嫌そうにチッチッチ、と3度舌打ちをして、黙りこんでしまった。それ以上は彼も私も何も言わなかったが、微妙な空気が家の中を流れた。

議論を単純化して見せるのは簡単であるし、エキサイテイングかもしれない。しかし、それでは世界は救われないだろう。エノラ・ゲイをアメリカ勝利のシンボルと捉えるのはあまりに一面的であり、アメリカの批評が欠けているという問題が分かりやすく出ているのでは、と私には思える。

原爆さえも歴史の中で風化してしまう現在の世の中が、私には恐ろしくて仕方ない。

この文章をゴーギャンの有名な絵画のタイトルで締めくくろうと思う。

”私たちはどこから来たのか? 私たちは何者か? 私たちはどこへ行くのか?”

エノラ・ゲイ展のオープニング抗議活動のビデオをダウンロード

(Mpeg4ファイル 20.87MB 15分)