B. 検閲

 

マリーナ・アブラモビッチのベネチア・ビエンナーレにおけるパフォーマンスと、サンヤ・イベコビッチのサンパウロ・ビエンナーレでのパフォーマンス「ミス・クロアチアとミス・ブラジルがジジェクとチョムスキーを読む」比較

 

                      a. 戦時中におけるベネチアでのユーゴスラビア代表

 

 1997年に開かれた第47回ヴェニス・ビエンナーレ「未来・過去・現在」におけるマリーナ・アブラモビッチによるパフォーマンス作品「バルカン・バロック」は、モンテネグロ政府からの圧力の為、検閲の危機にあった。しかしながら、キュレーターの気転の利いた配慮の為、彼女はヴェニス・ビエンナーレにおいてパフォーマンスを行う事ができた。

 

 不安定で複雑な状況の為、ユーゴスラビア自体の古い国家形態はもはや存在しなかったにも関わらず、ヴェニス・ビエンナーレにおけるユーゴスラビア・パビリオンの名称は変更されなかった。モンテネグロ美術館館長であるピーター・クコビッチは、連邦およびモンテネグロ文化庁の協定の下、ユーゴスラビアのコミッショナーとして選出された。そして彼はベオグラード出身でアムステルダム在住のアブラモビッチにユーゴスラビア・パビリオンに作品を出品して欲しいと依頼した。しかしこの選択は論争の的となり、肯定的・否定的な意見がモンテネグロとセルビアの新聞紙上に毎日の様に表れた。

 

b. ヨーロッパ最大のビッグネームであるマリーナ・アブラモビッチはキュレーターによって守られた

             

モンテネグロ政府の文化大臣であるゴラン・ラコセビッチは、西ヨーロッパにおいて有名である亡命者アブラモビッチは、「どんな複雑な劣等感からも自由である、モンテネグロからの本物の芸術」を反映することができない、と不快感を表明した。[1] ラコセビッチは、「モンテネグロは文化的辺境地域ではない。また、それは単に誇大妄想者によるパフォーマンスの植民地的な母国であってはならない。私の見解は、私たちには優れた芸術家を持つ機会および名誉があるので、モンテネグロおよびその詩的感性によって特徴づけられた私たちと共に生活している画家によって世界に代表されるべきである」と新聞紙上で述べた。[2]その直後、アブラモビッチは報道機関に対し、「ビエンナーレに関する全てのヘイマート機関とのコミュニケーションをすべて終了した」との公式声明を送ったが、その後すぐに、風景画家であるボーヨ・スタニッチ が彼女の代理として発表された。しかしながら、ヴェニス・ビエンナーレのチーフ・キュレーターであったジェルマート・チェラントがそこで仲介し、彼女のインスタレーション設置の為に、彼のメインの展示会場であるイタリア・パビリオンの地階全てを提供し、展示に参加することをアブラモビッチに依頼したのである。その結果、彼女は主要な賞である「国際ヴェニス・ビエンナーレ賞」を受賞する事となった。[3]

 

 

ヴェニス・ビエンナーレにおけるマリーナ・アブラモビッチによるパフォーマンス「バルカン・バロック1997

Left: Artist Body  Right: Marina Abramovic: Venice Biennale 1997

 

ラコセビッチの見解に反して、アブラモビッチのインスタレーションは、彼女の文化的背景の深遠さを見事に反映していた。彼女の家族背景に基づいて、彼女は、政治的観点から、さらに芸術的観点からも理想的な選択と言って良いものであった。彼女はセルビア人とモンテネグロ人の異なる民族間の結婚によって生まれた子供であり、また、彼女の両親は共にインテリゲンチャのリーダーであった。彼女の母親ダニカは貧しい家庭出身の軍隊の将軍であり、また彼女の父親は、裕福な家庭出身の第二次世界大戦中のパルチザンの最重要人物のうちの一人であり、国民的な英雄であった。[4]彼女の祖父は東方正教会の総主教であり、1938年にユーゴスラビア王によって彼の兄弟と共に殺害されているが、後に彼は聖人としてその後ミイラにされ埋められた。さらには、彼女の祖母は宗教の狂信者であった。[5]

 

アブラモビッチのインスタレーション「バルカン・バロック(彼女はそれをプレー、つまり演劇と呼んでいる)は、東方正教会のシンボルであるイコンに似せた三面続きの祭壇画風ビデオスクリーンによって構成されている。そのうち左側と右側の二つのスクリーンは、彼女の両親のイメージを流している。中央のスクリーンには、科学者風の服を着たアブラモビッチ本人が現れ、バルカン半島に生息するという、極限状態に置かれた際にお互いを殺しあう生き物である「オオカミネズミ」の発生の話について説明している。このイメージと交互して、スクリーン上のイメージは、彼女の幼少時代のフォーク・ミュージックに合わせて踊り、聴衆を楽しませる典型的なバルカン半島の恥知らずなパブ・シンガーに扮したアブラモビッチへと移り変わる。またインスタレーションの置かれた大部屋には、水で満たされた三つの銅製の容器と、巨大な量の動物の骨が山となって置かれていた。4日間、6時間ずつのセッションにおいてアブラモビッチはこの動物の骨の山の真ん中に座り、歌を歌いながらその骨に付いた肉片を剥ぎ取り、そしてそれを消毒し、綺麗にしていくというパフォーマンスを行った。[6]この劇的な浄化の行為は、深い悲しみの行為であり、バルカン半島における壊滅的な戦争を反映していた。アブラモビッチのアプローチは悲劇的であり、かつ非常に強い皮肉でもあった。[7]

 

アブラモビッチは、当初ユーゴスラビア代表としての招待を受諾した時、彼女は母国における戦争に対する責任に関して、熱心に考えたと言う。さらに彼女は、ヴェニス・ビエンナーレにおいて彼女の母国を代表する最初の女性であることを意識しており、その為彼女は、イスラム教徒およびキリスト教徒双方の女性が戦争中の暴力の主な犠牲者である事を心に留めていた。

 

アブラモビッチは、「私は、社会のイデオロギーを変える事ができる芸術にしか興味を持っていません... 美的価値のみに単に委ねられた芸術は不完全です...私はまたセルビア人、ボスニア人、そしてクロアチア人の誰も庇う様な事はしません...例えば私がこの戦争に関して私が感じているすさまじいまでの恥、そういった自分の感情に対処しようとしているのです。アーティストとして、あなたは自分の内部の事についてのみ対処する事ができます。これが戦争に情緒的に反応するただ一つの方法であるので、私はこの演劇を行なっています。」と語っている。[8] 

 

マリーナ・アブラモビッチ、NYソーホーのアパートにて (photo by Shinya Watanabe)

 

「ユーゴスラビアからの国々の独立に対する何らかの肯定的な考えを持っていますか?」との質問に、彼女は次の様に答えた:「私はユーゴスラビアの分裂には完全に反対でした。それは大変な間違いでした。・・・私がまだユーゴスラビアにいた29歳の頃には、ポジティブな要素のみが感じられました。ユーゴが崩壊した後は、ネガティブな状況だけが残りました。ですから私は、分離独立が良い事だなんて、納得しません。それは大きな間違いであると本当に思います。そして西側世界による圧力は巨大なものでした。」[9]

 

c. ベネチア・ビエンナーレにおけるキュレーターによる保護

 

 この場合、ビエンナーレのチーフ・キュレーターであったチェラントの判断、すなわちモンテネグロ政府文化大臣のラコセビッチの圧力にもかかわらず、イタリア・パビリオンにて特別に彼女に展示場所を与えた行為は、賞賛に値する。もしこういった勇敢なキュレーターが姿を消すとなると、検閲はいとも簡単に広まっていくだろう。

 

d. サンヤ・イベコビッチの場合 - クロアチア出身でザグレブで活躍するアーティスト

 

サンヤ・イベコビッチ(b.1949)は、クロアチアのザグレブに在住する、公共空間に彼女の作品を提示するメディア・アーティストおよびパフォーマンス・アーティストである。彼女は社会政治学的な文脈において、共産主義および商業主義の構造、およびその構造に対する支援メカニズムに対して、疑問を提起している。1970年代初頭までに、彼女は東ヨーロッパにおける最も著名な新人フェミニスト・アーティストの一人となった。[10]公共における、そしてプライベートにおけるイメージの並置は、共産主義又はアメリカの単一行動主義といった異なった状況内における権力と個人の関係を明らかにするという、イベコビッチの転覆的と言える戦術の長期的目的を示している。

 

サンヤ・イベコビッチの作品は、常に個人と社会との関係を明確にしようと試みており、その為、彼女の作品に対する反応は体制側にとって幾度となくデリケートな問題となってきた。事実、共産主義政権の下、女性への家庭内暴力の問題をテーマとしたテレビを使ったアート・プロジェクト等、彼女のアート・プロジェクトのいくつかは禁止されてきた。

 

e. サンヤ・イベコビッチの批判的視点

 

イベコビッチは、アブラモビッチに比べ、より批判的な視点を持っている。例えば、これらの二人のアーティストのチトーに対する評価は大変異なっている。アブラモビッチは29歳の時にユーゴスラビアを去り、1980年代および1990年代に起こった共産主義の負の側面およびユーゴスラビアの崩壊を直接経験していない為、彼女は共産主義に関連した理想主義の影響もあってか、チトーの側に近い立場を取っている。他方、サンヤ・イベコビッチはチトーに対し複雑な感受を抱いており、それはパフォーマンス作品「トライアングル(1979)に顕著に現れている。

 

 

   

サンヤ・イベコビッチ 「トライアングル(1979)

 

この作品では、イベコビッチは社会主義体制における「女性」のイメージに対して疑問を提起しており、そしてアーティストとしてそれに立ち向かっている。これらの写真は、パレードの日にチトーを乗せたリムジンが、イベコビッチの住む住宅ブロックの隣を通る際の、バルコニー上のイベコビッチを捉えている。車がある一定の場所に到達した際、近くの屋上に配置された秘密警察員を挑発する為、イベコビッチはあたかも彼女がマスターベーションしているかの様に手を動かした。すると、屋上に配置されていた警官はそれに素早く反応した。直ちに、彼の同僚のうちの一人は彼女の戸口に表れ、「人および物はバルコニー外に取り払う事」という命令が告げられた。[11]この作品において彼女は、共産主義政権の下で公共領域と個人領域を隔てる境界の欠如を明確にしようと試みている。

 

f. サンパウロ・ビエンナーレへの招致

 

2002年、サンヤ・イベコビッチはサンパウロ・ビエンナーレにおけるクロアチア代表に選出された。彼女は、当初クロアチア人キュレーターのレオニーダ・コバチによって選出されたが、その後、彼女の作品の内容の為、同じキュレーターによって選出そのものが却下された。この同一のキュレーターによるサンヤ・イベコビッチ選出の却下は、国際的な注目を浴びる事となった。

 

このイベコビッチの事例は単に日常レベルの政治の問題ではなく、公的領域における政府系芸術機関の内的な、そして国際的な政策および戦略と関係している。当初コバチは、「イベコビッチは彼女の国際的な評価および重要性の為に選出された」と述べた。[12]しかしながら、イベコビッチがどういった作品を展示するかを彼女が知った後、コバチは自らの考えを変えたのである。その作品は、ミス・クロアチアがチョムスキーのテキストを、ミス・ブラジルがジジェクのテキストを読む、というパフォーマンス作品であった。

 

この作品においてイベコビッチは、サンパウロ・ビエンナーレおよびミス・ワールドにおける、国民を代表する、というシステム及びその機能を比較している。さらに、クロアチアの独立そのものはフランジョ・トゥジマンによって率いられたナショナリズムの産物であり、さらにそれは西ヨーロッパからの資本の流入によって可能になった側面があった。この作品では、彼女は国際美術展という場において、国家の構造を象徴としたショー・ビジネスである「ミス・ネーション」を引用する事により、クロアチア及び世界の両方におけるナショナリズムと商業主義を皮肉っているのである。

 

さらに911日テロの為、アメリカおよび他の国々はナショナリスティックになっており、平和維持のトピックに関して過敏になっている側面があった。イベコビッチがジジェクとチョムスキーを選んだのは、911テロ発生直後に、彼らがテロ攻撃の原因およびその今後への影響の可能性についての極めて優秀な分析を直ちに発表したからである。ナショナリズムの高揚によって崩壊した旧共産主義国家を代表するアーティストにとって、「ミス・クロアチアとミス・ブラジルがジジェクとチョムスキーを読む」は、消費社会、ナショナリズム、ジェンダー問題およびグローバルな権力構造に対して述べられた、洗練された形式の批判であった。

 

ミス・クロアチアのライナ・ラグスおよびミス・ブラジルのサンディスレイア・ギテレズの両者とも、このパフォーマンスの提案を受理した。さらにチョムスキーは、イベコビッチからの電子メールによる招待状を受け取って間もなく、この提案を受理した。[13]当初、このプロジェクトはサンパウロ・ビエンナーレのチーフ・キュレーターであるアルフォンソ・ハグによって熱心に支持されたが、コバチが彼女を解雇することを決定した際、ハグはイベコビッチを守ることはしかった。

 

g. クロアチアにおけるキュレーター及び批評家の反応

 

ザグレブ在住の美術史家で批評家であるズヴォンコ・マコビッチはクロアチアの月刊誌フェラル・トリブネオフテン中に記事を書き、レオニーダ・コバチの立場を支持した。彼はその記事において、イベコビッチが貧しいクロアチア人納税者から金を「盗んだ」と発言している。ズヴォンコ・マコビッチは、「誰があんたらから金を奪っているか知ってるか?お前ら、貧しい納税者よ。」と述べている。[14]

 

この展示企画に資金を供給していたクロアチア文化庁は、暗黙にこの事例を回避した。その間マスメディアは、収益を上げる新しい手段として、この話題に飛びついた。またこのプロジェクトのプロデューサーであったザグレブ現代美術館は、結局声明を発表しなかった。

 

さらにサンヤ・イベコビッチがプロデュサー側との契約にサインしなかった為、作品の製作が遅れ、その上サンヤ・イベコビッチへの謝金はついに払われなかった。イベコビッチが契約書にサインするのを拒んだ理由は、その契約書がこのプロジェクトのプロデューサーであるザグレブ現代美術博物館へ、作品のうちの一つの複製(エディション)を与えなければならない、という事を暗示していた為である。つまり美術館のコレクション収集の為、美術作品の無料のコピーを得ようとした現代美術館側の契約書の内容に問題があったのである。

 

サンヤ・イベコビッチは謝金として合計32.000HRK(40万円)の謝金を受け取るはずであった。しかしおかしな事に、アーティストのアイディアからそれを実現する事の方がはるかに困難であるにも関わらず、同じ額の金額がキュレーターのレオニーダ・コバチに支払われた。[15]

 

h. サンヤ・イベコビッチの事例の重要性

 

マリーナ・アブラモビッチの場合には、チーフ・キュレーターであったジェルマーノ・チェラントが、アーティストの立場を擁護した。しかしながらサンヤ・イベコビッチの場合は、サンパウロ・ビエンナーレのチーフ・キュレーターであるアルフォンソ・ハグによって擁護される事はなかった。

 

またイベコビッチの事例は、現代美術機関および国家が共産主義崩壊以降の旧ユーゴスラビア地域でどのように機能しているかという問題を投げかけている。これらの機関は、アーティストから無料または格安にて美術作品を得ようとする傾向がある。さらに、キュレーターの新たな愚かしい方法論、そして批評家のナショナリスティックかつ文化的強制者への変化を支持しながら、権力のイデオロギーがどのようにアーティストに残酷な審判を下したか、という問題を残している。

 

 

C. 誰が解釈するのか?

 

a. 「バルカン」のイメージに関する国際的認識ヨーロッパによるステレオタイプ・イメージとポリティカル・コレクトネス

 

マリーナ・アブラモビッチ、サンヤ・イベコビッチの両者は、彼らの初期のキャリアにおける作風がアバンギャルドであった為、政府機関に実際に支援された事はなかった。しかし、マリーナ・アブラモビッチは西ヨーロッパにおいてパフォーマンス・アーティストとして長いキャリアを築いてきた点と、一方サンヤ・イベコビッチが旧ユーゴスラビア内のザグレブにおいてアーティストとして長く活動してきた点で大きな違いがある。アブラモビッチのユーゴスラビア代表としての「バルカン・バロック」は、イタリアのヴェニスを含む西欧諸国の当局にとってポリティカリー・コレクト(PC)でありえる。なぜなら、イタリアおよび他のヨーロッパでは、バルカン諸国は長い間「ヨーロッパの火薬庫」であった為である。

 

しかしながら、911テロ直後にジジェクとチョムスキーのテキストを読むことは、ブラジル当局とクロアチアの政府機関にとってポリティカリー・コレクトに成り得なかったのである。こういった背景の詳細が、何故イベコビッチが両方のキュレーターによって保護されなかったかに影響している。しかしながら、ポリティカル・コレクトネスに由ったこの検閲は、国家間の勢力状況によって定義されているのである。つまり、イベコビッチはこの権力構造の犠牲者であったのだ。

 

b. リベラリズムとナショナリズム国家によって創造された民主主義におけるパレート効率ジレンマ

 

特にナショナリスティックな政府の下に限って言えば、リベラリズムおよび表現の自由は、多数票によって決定される現在の民主主義の原則および法制度において共存することはできない。アマルティア・センは著書「合理的な愚か者」において、リベラリズムとパレート効率の共存の不可能性について論じている。[16]もしも民主主義によって構成された国家組織が911日テロの後にかなりナショナリスティックであったと仮定すると、国家のパレート効率はアーティストのリベラリズムからは遠ざかる。そしてもしブラジル人キュレーターのハグがイベコビッチを守ったとすると、イベコビッチの作品を見せる事がブラジルの国益に適っていない為、ハグは国家組織による懲罰的な処置の対象となりかねない危険性がある。その一方、クロアチアの独立そのものはフランジョ・トゥジマンのナショナリスト党によって率いられたナショナリズムの産物である。さらに法律そのものは、権威そのものを保護するために作られた側面があり、表現の自由を守る為に作られていない。もしこの事件においてイベコビッチがクロアチアの国家機関を訴えていたならば、クロアチア内部の法律の下で裁かれる限り、イベコビッチが裁判に勝訴できない可能性が非常に高い。しかしながら、なぜコバチがイベコビッチを当初選出したかは、彼女の国内における評価ではなく、彼女の国際的な評価であった。結論として、コバチのイベコビッチのクロアチア代表としての選出はコバチの誤りであった、と言える。そして国民国家の構造が存在する限り、何人かのアバンギャルド・アーティストは常に権力のスケープゴートとなるであろう。

 

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[1] Marina Abramovic: Venice Biennale 1997

[2] Newspaper Podgorica March 19, 1997

[3] Marina Abramovic: Venice Biennale 1997

[4] Pajic, Bojana. Primary Document –A Sourcebook for Eastern and Central European Art Since the 1960s p330

[5] Alicia Chillida and Steve Cannon Interview Marina Abramovic

[6] Abramovic, Marina. Artist Body p364

[7] Marina Abramovic: Venice Biennale 1997

[8] Marina Abramovic: Venice Biennale 1997

[9] マリーナ・アブラモビッチ・インタビュー 20031220

[10] Hoptman, Pospiszyl. Primary Document –A Sourcebook for Eastern and Central European Art Since the 1960s. p203

[11] Fricke, Harald. “Sanja Ivekovic: Neue Gesellschaft Fur Bildende Kunst. (Reviews: Berlin)”Art Forum. Feb, 2003

[12] Grzinic, Marina: Sanja Ivekovic: A Fight For the Artist’s Integrity

[13] サンヤ・イベコビッチ・インタビュー 200416

[14] Grzinic, Marina: Sanja Ivekovic: A Fight For the Artist’s Integrity

[15] Grzinic, Marina: Sanja Ivekovic: A Fight For the Artist’s Integrity        

[16] アマルティア・セン著 「合理的な愚か者 - 経済学=倫理学的探究」 p1-14

 

(C) Copyright Shinya Watanabe

 

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