IV. 矛盾する指針

 

A. 地域における展示問題メアリー・ケリーとマイケル・ナイマンによる「カストリオット・レクジェピのバラード」の場合

 

a.     1999731日ロサンジェルス・タイム紙の記事

 

1999731日付けのロサンジェルス・タイムズ紙は、コソボにおけるカストリオット・レクジェピと呼ばれる若いアルバニア人少年の救出劇について報道した。アーティストのメアリー・ケリーは、カストリオット少年の苦境と、彼が両親と再会した瞬間に発したという最初の言葉に対するメディアの注視に魅了された。この物語は、マイケル・ナイマンによるオリジナル音楽を備えたオペラ風アート作品「カストリオット・レクジェピのバラード」の元となった。以下はロサンジェルス・タイムズに掲載された記事の要約である:

 

戦野に一人ぽつんと取り残された戦災孤児は、彼の世話をしていた看護婦が働く病院へと連れて来られた。このセルビア人の看護婦は彼に新しい名前を与えたが、その名はゾランであり、極めて一般的なセルビアの英雄的な名前であった。しかしセルビア軍が戦争終結時にコソボから逃げ出した為、アルバニア人の看護婦はこの戦災孤児をリリムという名に改名した。その後、生後22か月になるこの少年は、彼の両親と再会し、彼の本名 - カストリオット - を取り戻す事となった。

 

カストリオットの母親ブクリー・レクジェピおよびその家族は、痛ましいまでの逃走を行っていた。NATO軍による空爆、さらにはセルビア軍のコソボ在住アルバニア人に対する進行し続ける迫害の真っ只中、カストリオットが住んでいたコソボ州の首都プリシュティナの北東に位置する山村コリッチにおいて、四月の第一週よりセルビア軍による砲撃が始まった。包囲攻撃の後、セルビアの準正規軍が到着した為、ブクリーとその夫である28歳のアフリムは、親族と共に逃亡を決意した。

 

家族のうち体の弱い者は、トラクター又はトレーラーに乗って丘を下って行ったが、セルビア警察は、彼らがプリスティナに到着するのを防いた。アフリム、ブクリー、彼らの息子、二人のアフリムの兄弟、いとこおよび彼の妻は、どうにかしてプリスティナに至る険しい山道を15マイル(約24キロ)歩いて行った。そこでの最も大きな問題は食料と水の不足であった。食料が不十分な量であった為、子供はしだいに衰弱していった。その後、この家族の話によると、反乱軍であるコソボ解放軍とセルビアの準正規軍との間で抗争が勃発した為、彼らは森の中へ逃れたと言う。

 

恐怖と衰弱の為、ブクリーは彼女の子供の身に何が起こったのか、気付く事はなかった。その後、彼女は腕の中の我が子を見た時、彼が呼吸している様には見えない事に気付いた。パニックに陥った両親は、青白く、そして無意識のカストリオットを蘇生させようと試みた。戦闘、そして爆発の音が強まる中、ブクリーは少年をより激しく揺さぶり、彼の名前を呼んだのだが、彼は返答しなかった。遂に、彼女はそこで彼が死んでいると判断したのである。彼女は彼の柔らかな青白い顔を何度ものキスで覆い、そしてその彼の小さな身体を地面へと横たえた。

 

ブクリーは、「私は、子供が私自身の手の中で死んでいくのを見届ける前に、私が彼らに捕まって喉を掻っ切ってくれたら何とよかっただろうと思った」と言っている。「私たちは泣きました。しかし、彼らが私たちの声を聞きつけるかもしれない、と思ったので、私たちは泣き叫ぶ事ができなかった。」彼女はその叫び声を心の中に収めたまま、ブクリーそして他の者達は、森林へと消えて行き、決してふり返る事はなかった。[1]

 

カストリオットがいつ、そしてどの様な状態で見つかったのか、未だ知られていない。彼を見つけたセルビア人警官は、おそらくコソボを去っており、さらにセルビア人の看護婦もまたコソボを去っている。しかし警官は彼の泣き声を聞いたか、彼が地面をよちよち歩いているのを見たのか、何らかの形で少年を発見し、そしてこの少年は、4月中旬にプリスティナの病院へと連れて来られた。彼は全く言葉を話さなかったので、この少年はセルビア人またはアルバニア人なのか、不明のままであった。

 

その間に、アフリム、ブクリーおよび彼らの親類は、セルビアによる攻撃を回避しながら、コソボを横切ってジグザグに進んで行った。彼らは、少年の身体を引き取る為に戻ろう、と話しもしたが、到底それが安全に行えると思わなかった、と語っている。

 

次第に、セルビア人達はKLA兵士による反撃の為、敗走し始めた。KLA兵士が前進すると共に、彼らは後退して行った。そして遂に、NATOの軍隊がコソボを占領した612日から約二週間後、ブクリーは彼女の夫そして家族と再会する事ができた。その時まで、彼女は常に自身の赤ん坊の事を想っていたという。

 

マケドニアとアルバニアの難民キャンプから難民が帰還し始め、さらに戦時中に起こった悲劇の物語が広がっていくと同時に、プリスティナにある病院の若い医者は、戦時中に子供を失った家族の話を聞いた。それを聞いたこの女性医師は、彼女が以前聞いた事のある戦争孤児リリムとして知られる少年について思い当たった。この医者は、彼女のいとこのうちの一人と連絡をとり、彼女が推測したことについて彼に伝えた。

 

今週、病院へ行く途中の車の中では、アフリム・レクジェピは彼の内部に湧きあがる希望を抑えるのに必至であった。「そこに行って彼に会うまでは、これが私の息子であると信じてはならない、と私は自身に言い聞かせていた」と彼は語った。しかしこういった不安は、この少年が発したたった一つの単語の発声と共に、消え去ったのである。[2]

 

 

カストリオット・レクジェビ本人[3]

 

カストリオットは、アルバニア語で「パパ(Bab)」と、父親に向かって発声したのである。

 

彼らの実家であるコリッチの家は破壊された為、レクジェピの家族はプリスティナのスラム街にある、家主から捨て去られた家へと引っ越した。両親と再び一緒になったレクジェピは、彼の母親の腕に抱かれ、完璧な心地良さと共に、ジャーナリストの前にお目見えした。ブクリーは、「これよりも良いエンディングは私には想像することができません」と語った。[4]

 

b.     メアリー・ケリーによるオペラ「カストリオット・レクジェピのバラード

 

カストリオット・レクジェピのバラードのポスター[5]

 

この物語はコンセプチュアル・アーティストでありUCLAにて教鞭を執るメアリー・ケリーをインスパイアし、マイケル・ナイマン・オリジナル作曲によるカストリオット・レクジェピのバラードと呼ばれるオペラ作品を作るに至った。この作曲家であるマイケル・ナイマンとのコラボレーション作品は、20011211日にサンタモニカ美術館で初演された。ケリーは、彼女のキャリア初期におけるロンドン滞在以来、ナイマンを知っていた。ロンドンにおける彼女の友好関係のサークルには、映画監督のピーター・グリーナウェイを含んでいたが、グリーナウェイは、映画音楽で有名なナイマンと「コックと泥棒、その妻と愛人」等において一緒に仕事をしていた。ナイマンはまたジェーン・カンピオンの国際的な売り上げを記録した映画「ピアノ・レッスン」において、音楽を担当している。またこのインスタレーション作品は、ケリーが彼女の作品に音楽を取り入れた最初の作品でもある。

 

音楽について、ナイマンはこう述べている。

 

「この音楽には四つの節すべてに共通である素材があり、また多かれ少なかれ同じと言えるある種のリフレインがあり、さらにこのリフレインが四つの節を分けている。私はそれらの節に、類似しているというよりも、より多くの相違が存在していると考える。私は、気付いた時には私自身がすべてのラインの後ろに立ち止まり、そしておのおのの意味および音楽的なパラレルを作っているのを発見しました。そのプロセスが私の中のベストを生み出したのであり、ただ単に機械的な意味で『マイケル・ナイマンがバラードを書いた』と、そういった類いのものではありません。私は、このバラードがある種の反バラードになった、と言うファックスをメアリーに送りました。」ケリーは、再構成されたバラードについての概念を気に入っている。「私がそれを書いた方法は、学術的な形式に基づいていません」と彼女は言った。「私は彼にいくつか作曲に関するノートを与えましたが、彼がそれらを無視したのだろうと確信します」と付け加え、彼女は笑った。[6]

 

この作品においてケリーは、音声送信の際にできる波状の形によって配置された、49枚の圧縮した衣服用ドライヤー・リント布で出来た灰色のパネルを使用している。それらは長さ200フィート(約60m)以上で、ギャラリーの壁を完全なる輪で包んだ。ケリーが自身によって指摘している様に、この様に配置されたリント布に順番に記入されたバラードのテキストを読む経験は、360度の映画的なパンをほのめかしている。無声映画よろしく、この作品はマイケル・ナイマンの女性ソプラノと弦楽四重奏曲のために書かれた、忘れ難い印象的なサウンドトラックによって完成している。ケリーはまた、こう述べている。「それは固定されたパフォーマンスではありません。それはまた、ミュージック・シアターでもありません。これは展示のための音楽なのです。これが私が作品について説明することができる最良の方法です。」[7]

 

ケリーはリント上でのオブジェを意図的に黒色と白色に限定したと述べたが、それは彼女が、写真的な感覚の様な、あるいは最近のスペクタクル映画とは異なる古い白黒映画の持っている様な持続についての概念について、360度周囲の壁を囲んだ全歌詞を含むリント布を見る過程で説明したかった為である。音楽が演奏されている間、彼女は鑑賞者に対し、過去の歴史に面することによって精神の現実、そして物理的な現実の運動を感じさせたかったのである。さらに、女性ソプラノのサラ・レナードおよび弦楽四重奏曲という楽器は、両方ともアンプを用いず、アコースティックであった。スペクタクルでないライブ音楽を使用することによって、彼女は歴史的連想と記憶(彼女はそれを「理論付けるのに対して不快を感じる」と認める)を再生しようと試みている。[8]

 

 

ニューヨーク・クッパーユニオン大学での展示風景

 

 

 

歌詞の詳細

 

彼女は歌詞において、「そして若き愛国者、カストリオットは、“バブ“と言ったand Kastriot, young patriot, says ‘Bab.’」と述べている。父親を意味するアルバニア語の単語を発する事により、この「バラード」は国家、家族、そして性の同一性に関する幼児のスピーチについて思い巡らしている。

 

c. 彼女の精神分析的アプローチ

 

彼女の最も特徴的な作品群は、いくつかの精神分析的な視点を示している。彼女の最初期における長期プロジェクトである「出産後ドキュメントPost-Partum Document(1973-79)において、ケリーは彼女自身と彼女の子供との間における熱烈で、そして感動に満ちた関係を研究した。その作品は、六つの異なったセクションから構成されており、そしてこれらは、プロジェクトによって作られたものの利用、また包括的な図表および物語的な解説など、異なった要素を配置し再構成することにより作られている。この作品において、彼女は精神分析における手法、および高度な概念的美学による手法を利用し、母親と彼女の子供の間の分離のプロセスを調査している。

 

ロングホイザーとの会話の中で、ケリーはカストリオットの物語のどの要素が彼女を引きつけたかについて説明している。カストリオットは、会話するという技術を学び始める時期に、その時期の大半を家族から分け隔てられて過ごした。ポスト構造主義者の精神分析医ジャック・ラカンによれば、幼少におけるこの時期は、言語の基本を作成する象徴的段階へと入っていく時期であり、さらに性の同一性の獲得や、民族的アイデンティティなどを含む他の全ての認識を獲得・構成を行う時期と一致している。彼の両親と再会した際、カストリオットが最初に発した単語は「bab(アルバニア語で「お父さん」)であったと報告されている。彼の場合では、同時に回復された父親および父権性(patronym)が、父性の記号的用途である、父親の名前の機能について例証している。また非常に込み入った民族的状況の為、カストリオットの生存は、コソボの新しく見つかった自由のシンボルとして主張された、等である。[9]

 

ケリーは、フランス革命の中で最初に出現したグローバル市民社会における啓蒙モダニズムを達成する為に、歴史における人権の問題が21世紀における討論の主なテーマになると観測している。[10] この発言は、コソボに対する彼女の位置および、それは幸福なだけでなく哲学的かつ精神分析的である作品「バラード」への姿勢を示している。写真ジャーナリストであるエイミ・ビタルの為にカストリオットのほおにキスをする母親、その写真を伴ったロサンジェルス・タイムズ紙のカストリオット・レクジェピの話を読んだ際、彼女は不思議な印象を抱いていた。キスは、象徴的にコソボにおける新しい自由を示唆するかもしれないが、同時にこれはメディアを前にした、若い愛国者としてカストリオットのショーなのである。ケリーは、さらに少年の第二の名前「リリム」がアルバニア語にて自由を意味し、それはコソボにおけるアルバニア人の、トラウマ化した生存への恐れを反映していることを指摘している。さらに、死の恐怖に直面した事がカストリオットにとって大きな精神的ダメージとなった為、それが彼の声を奪った、と彼女はカストリオットへの精神分析的視点も忘れていない。このトラウマは、死の恐怖に直面しつつ生存する事によって引き起こされた。これはハッピーエンドの物語ではなく、これはグローバルな市民社会を考える上で重要となる、歴史の一部なのである。

 

d. なぜヨーロッパでなく、カリフォルニアなのか?

 

この「バラード」は、アメリカ国内であるカリフォルニアおよびニューヨークで上演された。しかし問題は、NATOのリーダーで、コソボを空爆する際に重要な役割を果たしたアメリカ合州国の内部で上演した事である。したがって、この作品はコソボにおけるアメリカの勝利の「バラード」となる危険な可能性を持っているのである。

 

クリストファー・マイルスは、アートフォーラム紙にサンタモニカ美術館におけるケリーの展示についてこう書いている:

 

複雑な言語に基づいた物語に物理的な形式を与える試みによって定義されてきた彼女のキャリアにおいて、メアリー・ケリーは基本的にビジュアル的要素を控えめにしてきた。彼女のインスタレーションは、彼女の世代を定義したミニマリズムやコンセプチャリズムからの美的な継承を裏切る傾向がある。鑑賞者として、私はしばしば自分がもっと何か欲しがっている、と自覚したのだが、それは私が官能的または英雄的な作品を私が望んだからではなく、(それはケリーの心理学の残滓、トラウマ、個人史、アイデンティティの創造、人間の相互作用および社会階層への関心の何らかの一致であった様に見えた)しかし私がそれが目をひき、かつそれが私に思考させるのと同じ位、ガツンと体の奥に響くものであって欲しかった。さて、私は教訓を学んだ。このカストリオット・レクジェピのバラードで、ケリーは、全てのレベルにおいて私を捕え、放さない、そんな作品を提供した。[11]

 

その後、マイルスは「バラード」における素材および視覚的な影響について述べているが、彼は、ケリーが最も関係を払っていた心理学的効果については言及していない。

 

ニューヨークのクッパー・ユニオンでの上演は、上記のものと同様のものであったが、鑑賞者は、ケリーが最も伝えたかった心理学的影響においてではなく、ソプラノの音声によって引きつけられている様に見えた。ソプラノの高い声色は、理由なしに人々に感動を与えるメディアである。その結果、このソプラノの音声は、この「バラード」をNATOによる素晴らしきコソボ解放の話へと変更してしまったのである。

 

スーザン・ソンタグの章において記述した様に、アメリカの美術批評家を含んだ世論はコソボ空爆に対して肯定的であった。この世論は、精神分析的な作品から、NATOによるアルバニア人の救済へと、「バラード」の意味を変更してしまったのだ。

 

サンヤ・イベコビッチは、ケリーがザグレブにてイベコビッチに会った際に、何故ケリー自身が彼女の「バラード」に関してイベコビッチに一言も話さなかったのか、不審に思っていた。[12]恐らくケリーは、旧ユーゴスラビアにおける彼女の作品への批判を恐れていた可能性があり、旧ユーゴスラビアの出身のイベコビッチはケリーよりユーゴスラビアのコソボおよび民族の緊張の詳細により精通している為、彼女は自分の作品について言及しなかったのではなかろうか。この「バラード」は、一つの国民国家の内部か外部かによって、容易に作品への意味または評価が変更してしまう、良い例である。

 

 

B. 大文字の歴史の中における勝者と敗者

 

a. 歴史の救済歴史は常に勝者によって書かれる その為歴史の救済が必要である

 

ユーゴスラビア紛争は、結果五つの国、すなわちスロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア・モンテネグロを生みだした。コソボは、名目上セルビア・モンテネグロの一部ではあるが、国際安全保障部隊KFOR(Kosovo Force)および国連コソボ暫定統治機構によって管理される国際保護領となった。

 

クロアチアでは、1999年末に起こったトゥジマンの死の直後に行われた選挙の結果、それほどナショナリスティックではなく、より民主的な政府が発足した。セルビア・モンテネグロにおいては、2000年の終わりにセルビアにて起こった非暴力革命がミロシェビッチおよびその政権を打倒し、彼の政権をより民主的で、地域における問題を平和的解決に導こうと試みる政権へと移行させた。そして20016月、セルビア政府は裁判を行なう為、旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷(ICTY)へとミロセビッチを引き渡した。しかしミロシェビッチは200312月、超ナショナリスト党のメンバーとして選挙に出馬し、議会で再び議席を勝ち取っている。

 

この戦争の後、スロベニアを除く全てのエリアが長期的な経済的、社会的、心理的な危機に直面した。しかし最も残念な事は、この戦争の為、これらのスラブ民族が今後再び同じ国家の市民となる事は二度と来ないだろう、ということである。この戦争の為、今後彼らは異なる国家および宗教の名の下に、自己のアイデンティティを維持しようとするのである。[13]

 

コソボ州の首都プリシュティナの中心図

 

コソボとボスニアにおける未解決のまま残された最終的状況は、この地方における継続的な不安定要素および潜在的な新しい武力紛争の元凶となった。また紛争後、コソボの首都プリシュティナの都市の景観及び施設の名前などが変更された。例えば、ビル・クリントン通りやUCK(KLA)通りと呼ばれる通りが創設され、また、最重要幹線道路は、旧来の名称「チトー元帥大通り」から「マザー・テレサ大通り(Bulevardi Nena Tereze)」へと改名された。そしてこのマザー・テレサ大通りには、アメリカの平和グループによって寄贈されたマザー・テレサの彫像が立っている。

 

 

マザー・テレサ大通りに建立されたマザー・テレサ像 (Photo by Shinya Watanabe)

 

マザー・テレサは、現在のマケドニアの首都であるスコピエに、コソボ出身のマイノリティであるアルバニア人として1910年に生まれた。しかしながら、彼女がアルバニア人でありながらも東方正教会教徒である為、彼女の彫像はプリスティナでは必ずしも歓迎されなかった。このアメリカの平和団体は、コソボの人々がこの彫像を歓迎するだろうと考えたのであろうが、おそらくこの平和団体は、コソボ出身のアルバニア人の宗教背景を報告しなかったメディア・コントロールの為、アルバニア人の持っている複雑な背景を理解していなかったのだろう。

 

冒頭に述べた様に、公式の歴史は、常に勝者によって書かれて来た。しかしながら、弱い人々の側について、結果敗北した為、これらの勝利者によって適切に評価されない多くの芸術家がいる事も事実である。ユーゴスラビア紛争の場合には、民族主義の政権に反対した何人かの人々は、その為、公式の歴史から削除された。またNATOの空爆に反対した知識人達に対する評価は、NATOの勝利の後においては低いものであった。こういった状況における美術史家の仕事は、ヴァルター・ベンヤミンの言っている様に、これらの人々を歴史から救出することではないだろうか。

 

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[1] Glover, Scott. "War Orphan Regains Name--and Family; Kosovo: Toddler at hospital is reunited with parents, thanks to doctor" The Los Angeles Times Jul 31, 1999 pg. 1

[2] Glover, Scott. "War Orphan Regains Name--and Family; Kosovo: Toddler at hospital is reunited with parents, thanks to doctor" The Los Angeles Times Jul 31, 1999 pg. 1

[3] Glover, Scott. " Milagres... HOJE! 'Pois este filho estava perdido...'" The Dallas Morning News July 31, 1999

[4] Glover, Scott. "War Orphan Regains Name--and Family; Kosovo: Toddler at hospital is reunited with parents, thanks to doctor" The Los Angeles Times Jul 31, 1999 pg. 1

[5] Posters to Celebrate Exhibitions (Cooper Union) Designed by Chun Ae Hannah Lee

[6] Knight, Christopher. "Art Review; On Lint, a Tale of a War Orphan's Rescue; Mary Kelly's narrative work at the Santa Monica Museum of Art creates few sparks." Los Angeles Times Dec 15, 2001.  p F2

[7] Knight, Christopher. "Art Review; On Lint, a Tale of a War Orphan's Rescue; Mary Kelly's narrative work at the Santa Monica Museum of Art creates few sparks." Los Angeles Times Dec 15, 2001.  p F2

[8] Knight, Christopher. "Art Review; On Lint, a Tale of a War Orphan's Rescue; Mary Kelly's narrative work at the Santa Monica Museum of Art creates few sparks." Los Angeles Times Dec 15, 2001.  p F2

[9] Kokoli, Alexandra. “Mary Kelly: The Ballad of Kastriot Rexhepi with and Original Score by Michael Nyman” The Art Book Volume 9. Issue 4 September 2002

[10] Lecture: Mary Kelly (Audio recording): For Judith: Thoughts on Absence and Remembering in the Ballad of Kastriot Rexhepi at Art Gallery of Ontario

[11] Miles, Christopher. "Mary Kelly: Santa Monica Museum of Art" ArtForum, March, 2002 p145

[12] サンヤ・イベコビッチ・インタビュー 200416

[13] Rusinow, Dennison “Yugoslav Succession” Microsoft Encyclopedia

 

(C) Copyright Shinya Watanabe

 

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