III. 解釈と検閲

 

A. 解釈および適切な開催地を見つける困難

 

a. スーザン・ソンタグによる「ゴトーを待ちながら」の演出  サラエボ市民の為に?

 

 スーザン・ソンタグは19937月中旬から1ヶ月以上の間、サミュエル・ベケットによる演劇“ゴドーを待ちながら”の演出を行なう為、サラエボに滞在した。19934月にソンタグは一度サラエボを訪れており、その際セルビア軍によって包囲されたサラエボの為に、何かできないかと考え始めた。ある日、サラエボ生まれの舞台監督であるハリス・パソビッチは、数か月後にサラエボに戻って来て、舞台を監督してみる気はないかとソンタグに尋ねた所、彼女はこの申し出を受け入れた。

 

演劇に関して、彼女はこう回想している。“「じゃあ、何をしたいかしばらく考えさせて」と私が続ける間も与えず、彼の方から「どの芝居をやりたい?」と続けた。さらに私はとっさに、もう少し考え込んでいたら思いつかなかったであろう、向こう見ずなことをしてしまった。演出するならこれだ、という作品がふっと頭に浮かんだのだ。四十年以上前に書かれたベケットの芝居。それはあたかもサラエボのために、またサラエボについて書かれた物の様に思えた。”[1]

 

スーザン・ソンタグ演出による「ゴドーを待ちながらの」記者会見用の通知

 

 この会話の為、セルビア軍の砲撃やスナイパーによる狙撃などのサラエボ包囲攻撃のさなか、ソンタグは「ゴドーを待ちながら」の演出を開始する事となった。ソンタグの舞台のセットは、30本の蝋燭、砂袋、ポリエチレン敷布および人道的援助による供給物などによって作られた簡素なものであった。また俳優および演劇の観客の両方は、人の集まる所が標的となる中、殺される可能性のある危険な状況にあった。(詳細に関しては、付録S-1S-2S-3S-4を参照)

 

彼女の配役(付録S-1,S-2を参照)では、ソンタグが、ヴラジーミルとエストラゴンの役を、男性のペア、女性のペアおよび混合ペアによる三組にすることにした。演劇の開始当初、この三つのペアは順番に、お互い独立した会話を行なった。また俳優は十分な食物を食べていなかった為、非常に容易に疲れ切ってしまったと言う。さらにその為、ほぼ全員の俳優が、セリフを覚えるのに難があった。

 

 ソンタグは、「ゴドーを待ちながら」の第二幕はサラエボには重苦し過ぎると判断し、第一幕のみ上演する事にした。なぜなら第二幕では、ラッキーはもはや話せず、ポッゾは悲しげで盲目になっており、ヴラジーミルは絶望にとりつかれているからである。さらにソンタグは、ゴドーがやって来ない、と二度も聞かせるのを避けたいという思いがあった。[2]

 

ニハード・クレセヴルヤコビッチ (photo by Shinya Watanabe)

 

サラエボの国際演劇際におけるプログラム・マネージャーを務め、ソンタグを招いた張本人であるニハード・クレセヴルヤコビッチによると、何人かの兵隊は演劇を見るのをとても楽しみにしており、実際の戦場から直接演劇会場まで駆けつけたと言う。何人かの兵士は軍服のままやって来たが、何人かは貧しさの為軍服さえ持っておらず、戦場から汚れた服のままやって来たとの事である。[3]

 

 ソンタグ演出による「ゴドーを待ちながら」の上映は、1993717日より始まった。この舞台は計17回上演され、毎回ほぼ満員の聴衆の前で開かれた。彼らは2週間に及ぶソンタグのサラエボでの滞在期間の内、人道援助組織に200本のろうそくの寄贈を求めており、また公演そのものは、ジョージ・ソロス主催のオープン・ソサエティ・ファンドによって援助されていた。(付録S-3S-4を参照)

 

b. 彼女のボスニア人ムスリムへの同情

 

彼女の本「Where the Stress Falls」において、ソンタグはボスニア人ムスリムへの同情を示している。「四月に行ったときも再三聞かされた  自分たちはヨーロッパの一員だと。世俗主義(非宗教的態度)、宗教に対する寛容性、多民族原理といったヨーロッパの価値観によって立つ、かつてのユーゴスラヴィアの国民だと。」[4]しかしながら、これが理論的に正確かどうか、疑問が残る。

 

前述した様に、広告代理店ルーダー・フィン社のジェームズ・ハーフは、「多民族国家multiethnic state」という言葉を使う事により、ボスニアの独立を正当化するという策略を打った。またハーフにとってボスニア軍のディビャク将軍は、ボスニアが多民族国家である訴えを内外に伝える為に最も適切な人物であった。ディビャクはサラエボ生まれのセルビア人であるが、彼は都市を包囲しているセルビア軍を良く思っていなかった。彼らの存在および行為は、彼に反セルビア感情を抱かせ、その為彼はボスニア軍へと加わったのである。しかし彼はセルビア人としての民族背景の為、ボスニア軍から追放されたのである。そこでハーフは、ディビャク将軍と、ムスリム人ナショナリストでありボスニア・ヘルツェゴヴィナ大統領であるイゼトベゴビッチのミーティングを企画した。このミーティングにより、セルビア人の将軍がボスニア軍において指導者というポストについているという事実から明らかな様に、ボスニアは他民族国家を作ろうとしているのだ、とハーフは喧伝したのである。

 

 さらにハーフは1992921日、国連におけるユーゴスラビア連邦(セルビア・モンテネグロ)の追放に関して行なったイゼトベゴビッチのスピーチを代筆した。ボスニアにおける多民族の状況について説明する為、ハーフは、彼のスピーチの中で「多民族国家multiethnic nation」という言葉を何度も使用した。またハーフはリサーチを通じて、イゼトベゴビッチがアマチュア画家で、ジャクソン・ポロックの名前を知っている、という事に着目した。

 

イゼトベゴビッチは、ハーフによって書かれた国連スピーチの中でこう言っている。「私たちの国を一つの民族の色に染め上げようというたくらみを許してはなりません。ボスニア・ヘルツェゴビナは、あたかもジャクソン・ポロックの絵の様な、さまざまな民族の色が入りまじった美しさを持つ国なのです。」[5]

 

こういった広告代理店による小さなトリックが、おそらくソンタグの親ボスニア感情に影響している事が考えられる。

 

                            c. NATOの介入に関するソンタグの理論

 

彼女の著書にて、ソンタグは「外国から来た大勢の有能なジャーナリストたち(その多くは私と同じで、介入を支持している)が、サラエボ包囲が開始されて以来、さまざまな嘘や殺戮について報道してきた。その間、介入はしないという西欧諸国とアメリカの決定は揺るがず、セルビアのファシスト政権に勝利を許してきた」[6]さらに彼女は、「最良の記者」として、現地を訪れずにオマルスカの強制収容所について書いたロイ・ガットマンの名前を挙げている。ソンタグはこう書いている:

 

今世紀に入ってヨーロッパで起こされたジェノサイドの中で、それを世界の報道陣がこぞって追いかけ、夜ごとテレビに映し出されたのはこれが初めてだ。1915年のアルメニアにて、世界のプレスへ向けて毎日報道を送る記者はいなかった。ダッハウにもアウシュビッツにも外国のカメラ班はいなかった。ボスニアではジェノサイドが起こるまでは - 『ニューズデイ』のロイ・ガットマンや『ニューヨーク・タイムズ』のジョン・バーンズといった現地にいた最良の記者たちの多くが、事実、以下の様に確信していた - 報道が外へ伝わりさえすれば、世界は何かをするはずだ、と。ボスニアのジェノサイドの報道がその幻想に終止符を打った。[7]

 

 この箇所より、ソンタグはボスニア紛争を理解する為に十分な情報を持っていなかった、と結論付ける事は容易である。ソンタグは、ユーゴスラビアの他の地域ではなく、他でもないサラエボにいたのだ。この為、彼女は自らを当事者性の罠へと陥れてしまった。この当事者性の罠は、彼女の意見であるセルビア人をファシストであると明言し、ボスニア人を被害者としている彼女の見解に現れている。

 

d. ソンタグのコソボ紛争以降における立場

 

 コソボ紛争が起こった時、ソンタグはセルビア人による虐殺を止める為、セルビア軍およびセルビアの首都ベオグラード空爆に対し、より明白に空爆を支持した。朝日新聞上にて行なわれた大江健三郎との往復書簡において、ソンタグはすべての暴力が等しく非難されるべきものなのではない、と述べている。つまり、暴力なしで戦争を止める事ができない場合も存在するとし、ソンタグは、この種の暴力を支持しているのである。[8] コソボの場合、ソンタグはセルビア人による虐殺を止める為、NATOの爆撃を支持した。彼女はその理論を立証する為、カンボジアのケース、すなわちベトナムによる干渉の結果、ポル・ポトおよびクメール・ルージュによる虐殺が停止した場合を引用している。[9]しかしながら、カンボジアのケースはユーゴスラビアのそれと状況が全く異なっている為、カンボジアにおけるケースの引用は極めて悪質と言える。ペンシルバニア大学金融学の名誉教授エドワード・ハーマンは、ポル・ポトおよびアメリカの外交政策に対し、非常に重要な見解を持っている。

 

タイムズは、他の主流メディアの全てと同様、ポル・ポトが1975年に権力の座に就く前に、フィンランド政府による研究が、虐殺の「10年間」(ポル・ポトの支配期であった1975-78のちょうど4年ではない)と呼んだ前半部において、アメリカがカンボジアを荒廃させた事に関して発言するのに失敗している。ニクソン=キッシンジャー達ギャングによるカンボジアの「秘密爆撃」は、クメール・ルージュによって殺されたのとほぼ同数のカンボジア人を殺したかもしれず、都市部のエリートおよび海外のテロリストと結託したリーダー率いる、市民に対するクメール・ルージュの狂暴な態度に確かに貢献している。

 

米国が負わせたホロコーストは、ベトナム戦争への「余興」であり、アメリカによる1969年までのカンボジアへの爆撃は、1960年代およびその後にカンボジアへと侵攻するサイゴンの傀儡政府と共同で行なった、1970年のシアヌーク転覆を組織することに役立った。「米国B52(1973年に)160日連続してカンボジアに爆弾を打ち込んだが、240,000トン超の爆弾を水田、水牛、村(特にメコン川沿い)そしてゲリラが維持しているかもしれない軍隊地域に落下させ」ており、この爆弾の分量は「第二次世界大戦中に日本に落ちた一般爆弾の150パーセントに相当」している。この「定期的無差別爆撃」は、当然ながら空軍や地上軍を持たない小作農の社会に対して行なわれた。フィンランド政府の研究によると、第一段階にて60万人が死亡し、200万人の難民が生みだされたと推測している。[10]

 

 自身の著書において、ソンタグはユーゴスラビアの状況を単純化しようとしているが、民族紛争について討議する際、それは非常に危険である。

 

ソンタグはさらに、良心の声を公言した政治家として、ドイツの副首相兼外務大臣であったヨシュカ・フィッシャーを賞賛している。しかし、ゲルハルト・シュレーダー首相の社民党と連合し初めて内閣に入った数か月間の内に、緑の党のフィッシャーはNATOの攻撃を正当化し始めた。彼のスローガンは、これまでのスローガンであった「戦争は二度と起こさない」から「アウシュヴィッツは二度と起こさない」へと変更された。彼はコソボにおける戦争を、大虐殺に対する戦争と描写したのである。フィッシャーは2000323日木曜日のツァイト紙の中で、「私たちは、裕福なドイツがこの惑星の危機に無関心でないことを人々に示さなければならない」と述べている。[11]フィッシャーは、さらにドイツは1999年までEUの議長国を務めていた為、コソボにおけるセルビア人の野蛮な姿勢は西ヨーロッパの安全への挑戦である、とも述べている。

 

 この時点で、ソンタグは米軍主導の組織であるNATOにより、世界平和を保証する事ができるとする意見を具体化する人物となった。

 

e. KLAの変わり行く役割: テロリスト・グループからフリーダム・ファイターへ

 

コソボ問題について話す為には、私達はコソボ解放軍(KLA)の事を知る必要がある。アルバニア人の間では、アルバニア語でUshtria Clirimtare e Kosoves(UCK、通称ウーチャーカー)として知られていたKLAは、非常に謎に包まれたグループである。1995年から1998年までのニューヨークタイムズのバルカン半島の支局長を務めていたクリス・ヘッジスは、KLAの背景およびその目的について、フォーリン・アフェアーズ誌においてこう書いている。

 

「コソボ解放軍(KLA)は、一方にはファシズムからの着想、そしてもう一方に共産主義の影響という、奇妙なイデオロギー上の分割をしている。以前の派閥は、右翼アルバニア人兵士の息子および孫、すなわち第二次大戦中にファシスト軍およびナチ党によって率いられたスカンデベルグ有志SS部隊と戦った人々の子孫、あるいは80年前にセルビア人に対して蜂起した右翼アルバニア人カカク反乱軍の子孫のいずれか、によって統率されていた。

 

戦闘力としては常に取るに足らないものであったが、スカンデベルグ部門はホロコースト中に、地域内における数百人のユダヤ人を駆り集め追放する、という恥ずべき行為に参加している。

 

グループの残党は大戦終了時にチトーのパルチザンと戦ったが、これは千人のアルバニア人の死を招いた。彼らの、警察に黒い制服を着せ、かつ握りこぶしを額に当てて挨拶する行為を定めたKLA指揮者による決定は、多くの人々にこういったファシストの前歴について心配させた。そのような批判の為、その挨拶は米国の軍隊において共通である通常の手のひらを開いた挨拶へと変更された。

 

第二のKLAの派閥は、国外追放中の多くの旧型スターリニストであるKLAリーダーによって構成されており、彼らは一度、アルバニアの独裁者である外国人嫌いのエンヴェル・ホジャによって資金援助されていた。ベオグラードが州自治を与えた1974年時、これらほとんどのリーダーはプリスティナ大学の学生であった。

 

ユーゴスラビアの監視から解放された後、この大学は、アルバニアからホジャのスターリン主義政権によって注意深く編集された何千もの教科書を輸入し、少なくとも12人に及ぶ好戦的なアルバニア人教授を招いた。学位のプログラムに加え、プリスティナ大学は、革命の技術を持った若いコソボ在住のリーダーを静かに養成し始めた。KLAリーダーの多くがこの大学から出ているのみならず、不気味にも、その近隣(旧ユーゴスラビア共和国である)のマケドニアにおけるアルバニア人のリーダーもまたこの大学の出身者である。

 

二つのKLA派閥は、民主主義機関に関する理解において、共感する所をほとんど持っていない。急進左派と急進右派がひどく分割されており、それらは、西(FYRO)マケドニアおよび近隣のモンテネグロで暮らす、少数派アルバニア人地域における戦いを実効するべきかどうかで現在議論中である。彼らが同意しているただ一つのものは、セルビア支配からのコソボ解放の必要性である。他のすべては脅迫的に、その後決定されるだろう。しかしそれがどう行なわれるかについては、話されていない。」[12]

 

 ヘッジスはさらに、コソボ、セルビアの一部、(FYRO)マケドニアの大部分、現在のギリシャの一部、ならびにモンテネグロを含めた大アルバニアの地図について話している。この地図は187871日、すなわちトルコの領域であった南西バルカン諸国がアルバニア国家の防御の為に同盟を設立した時に作成されたと言う。[13]

 

多くのKLA司令官が、「すべてのアルバニア人のための解放軍」として、自身を誇示した。しかしながら、1966年〜1989年の間に、約13万人セルビア人が、マジョリティであるコソボ在住アルバニア人による、相次ぐ嫌がらせおよび差別のため、コソボ州を去っている。[14]

 

1996年にはKLAはコソボ独立の為の激しい戦闘へと加速して行き、セルビア人のみならず、KLAを支援しなかったアルバニア人をも対象として、一連のコソボにおける警官および民間人の暗殺を開始した。その為、ユーゴスラビア(セルビア・モンテネグロ)政府は、KLAをテロリスト組織としての烙印を押した。19983月、米国ボスニア特使ロバート・ゲルバードは、「UCK(KLA)は疑いの余地なく、テロリスト・グループである」と宣言した。[15]しかしゲルバードがこう発言した際、ミロシェビッチはそれがコソボからKLAを除外しようと努力するセルビアへの支援だと解釈し、軍事力をもって彼らに圧力を加え始めた。

 

[16]

 

しかし6月には、米国特使リチャード・ホルブルックはKLAと連絡をとり、「自由の戦士(Freedom Fighter)」として彼らを支援し始めた。またこの会議より以前から、CIA工作員はKLAに武器とトレーニングを供給していた。[17]

 

当初の位置とは対照的に、欧州安保協力機構(OSCE)によって確認された様、ユーゴスラビア政府が一定の地域からその力を撤退させない限り、米国はユーゴスラビアを空爆すると脅した。この時点で米国は、ユーゴスラビアの西側への統合と経済の枠組みを妨害していたミロシェビッチを排除する事を、その時明白に決定したのである。

 

199810月にセルビアとの合意が得られ、政府軍の撤退を監視する為に1,000人のOSCE観察者がコソボへと向かった。しかしながらKLAは、武装攻撃を再開する為、この撤退を利用したのである。19991月にラチャク村において、コソボ在住アルバニア人45人がユーゴスラビア政府軍によって虐殺されたと申し立てられた。当時、また現在の両方において虐殺の証拠は矛盾しており、ラチャク村の犠牲者が民間人あるいはKLA戦士か、また彼らが銃撃戦にて、又は至近距離からの射撃によって死亡したかどうかに関して猛烈に論争された。[18]しかしラチャク村での事件は、戦争へと加速して行くアメリカの正当化の為に飛びつかれたのである。1999年前半には、OSCEは「コソボの現在のセキュリティ環境は、コソボ在住アルバニア人による準軍事的な執拗な攻撃および挑発に応じる、ユーゴスラビア政府当局による過剰な軍事力の使用によって特徴づけられている」と表明している。[19]

 

 もしアメリカが民主主義の基本を支持したく、また人権侵害を止めたいのであれば、反暴力を掲げたコソボ大統領イブラヒム・ルゴバを支援する事が合理的な政策と言えた。しかしランブイエにおける和平交渉では、アメリカは、コソボの大統領であったルゴバをコソボ代表とせず、KLAの代表を招いたのである。

 

f. ランブイエ和平条約  ヨーロッパによる政策の崩壊

 

実は米国国務長官マデリン・オルブライトによって起草された、ランブイエ和平条約そのものに問題があったのである。この和平案はミロシェビッチによって拒絶され、1999324日にNATO軍によるセルビア空爆を引き起こした。これはランブイエ条約の付録B条項8番の全体の引用である: 

 

8. NATOの人員は、彼らの自動車、船舶、航空機および装備を持ち込め、関連する領空および領土の水域を含むFRY全土に渡る障害のない無料、そして無制限の通行を享受するものとする。これは野営、作戦行動、民家提供命令およびサポート、訓練、また活動に必要な全ての地域における施設の使用における権利を含み、書かれた項目のみに制限されない。[20]

 

これはNATOによるユーゴスラビア全土の占有以外の何物でもない極端な要求であり、この付録Bは、ランブイエ和平条約の決裂から6週間後の46日に明らかにされた。この内容が明らかにされた際、ドイツ緑の党の代議士であるアンジェリカ・ビールはフィッシャーの決定に対して抗議し、もしこの条約の内容を知っていたのなら彼女は会議中にフィッシャーの決定に抗議していただろうと発言した。[21]元米国国務長官のヘンリー・キッシンジャーでさえ、この内容について「刺激、空爆を始める為の挑発、弁解にすぎない」と指摘している。[22]アメリカのこの気まぐれで変化し続けた姿勢は、軍事介入、そして空爆開始の為の理由となった。またオルブライトは、カナダ出身の国連軍指揮者ルイス・マッケンジー将軍や日本の国連特使であった明石康など、平和主義的な国連代表者を解雇に追い込んだ。特にオルブライトは空爆反対論者であった明石氏をそのポストから外す為、ブトロス・ブトロス・ガリ国連事務総長へと強力な圧力を加えた。その結果、こういった国連の平和主義者はNATOによる空爆開始の為のスケープゴートとなったのである。

 

 ユーゴスラビアにおける攻撃を加えた国の最終目的は、ミロシェビッチ政権の打倒であり、その後のイラク戦争における目標、すなわちフセイン政権の打倒、と同様であった。イラクにおける戦争誘発の正当化は、フセイン政権が多量破壊兵器を所有しているという名目によってなされたが、ユーゴスラビアでは、それはコソボにおける人権危機の回避および大量虐殺であった。この双方の場合において、その様な告発を立証する証拠が欠けていた。更に、KLAの場合は、タリバンやアル・カーイダの例とかなり似ている。つまり、テロリスト・グループがフリーダム・ファイターへと変更され、またフリーダム・ファイターはテロリスト・グループへと変更されるなど、米国の外交政策およびその定義によってこういった団体の存在意義が決定してしまうのである。

 

g. NATO空爆に反対する知識人たち

 

 ピエール・ブルドュー、ダニエル・ベンサード、ピエール・ヴィダル・ナケおよび他の左翼フランス知識人は、1999331日のル・モンド紙にNATOによる空爆に反対する宣言文を掲載した。またエドワード・サイードやノーム・チョムスキー等、他の世界的に有名な知識人は、この宣言文に署名した。これが宣言文の導入部分である:

 

              我々は間違ったジレンマを拒否する:

- NATOの介入を支持しますか?それとも、コソボにおけるセルビア政権の反動的な政策を支持しますか?コソボからのOSCE軍の撤退を強いる事となったNATOによる空爆は、セルビアの準軍隊による地上軍の攻撃を防いでいないどころか、促進している。それらは、最も酷いセルビア超ナショナリストによるコソボ在住者に対する報復を促進している。またそれらは、独立メディアを破壊したスロボダン・ミロシェビッチの独裁的権力を強化しており、コソボにおける平和的な政治的交渉への道を開くために必要である国民の一致を彼の元に再結集させている。[23]

 

 これらのフランスの知識人に加え、ガブリエル・ガルシア・マルケス、マリオ・バルガス・リョサ、ギュンター・グラス、ウンベルト・エーコおよびジョン・アーヴィング等の知識人が、NATOによるセルビア空爆に反対を唱えた。米国元司法長官ラムゼイ・クラークは、NATOによる攻撃は国際法のすべての規準の下で懲罰可能な犯罪であると発言した。さらにクラークは、「戦争が終わった時、多くの時間およびエネルギーが、NATOが三つあるいは七つのユーゴスラビア軍戦車を破壊したかどうか確証するために浪費されたが、328の倒壊された学校および33の倒壊された病院には割かれなかった」と述べている。 [24]

 

 またNATOの介入に関し、石油パイプラインおよびY2K問題に直面した巡航ミサイル等、ヨーロッパ諸国に関係する隠された動機、および利権が状況をより複雑にした。差し迫ったY2K問題の為、アメリカはこれらのミサイルを2000年以前に使用機会を得ようと努力していた。さらにNATO軍は空爆において劣化ウラン弾を使用したが、これは当初の目的であった人道的介入と真っ向から対立している。

 

 ソンタグのこの主題に関する理論は非常に単純である。彼女は、ミロシェビッチおよびセルビア人がファシストであると結論を下し、また彼らによるファシズムがボスニア戦争および虐殺を引き起こした、としている。さらにここにおいて彼女は、ドイツの帝国主義やクロアチアの独立、1980年代に西ヨーロッパによってもたらされた自由な市場経済、NATOの政治的な意図および西欧とアメリカによるダブルスタンダード等の事実を無視している。また彼女がフィッシャーを賞賛した際、彼女がランブイエ和平協定の十分な内容を知っていたかという事に関しても、疑問が残る。

 

 さらにソンタグは、二つの明白な立場があり、そして彼女はその一つである正しい立場にいる、という確信に関し、自問していない。彼女は、この様に問題を提起したのである:ミロシェビッチかNATO、どちらかを選びなさい。つまり彼女にとって、ユーゴスラビアの問題はソンタグ自身の問題となったのである。

 

h.     ソンタグに対する世評ネーションの内部と外部で

 

 ソンタグに対する評価は、特にアメリカの内部において非常に高い。2002年にコロンビア大学の全米美術ジャーナリズム・プログラムが行った調査では、スーザン・ソンタグは「認知度」のカテゴリーにおいてトップに立った。この調査は、200人のアメリカの美術評論家に対し、58人の候補者の中から世界美術史上最も有力な美術評論家を評価するように依頼し、ランキングにしたものである。また「認知度」に続き、「一般評価」のカテゴリーにおいても、ソンタグがクレメント・グリーンバーグに続き二位であった。「情報に基づく評価」のカテゴリーの中では、彼女はピーター・シェルダールおよびクルメント・グリーンバーグに続き、三位であった。[25]この調査はソンタグがNATO軍によるベオグラード空爆を支持する事を表明した後の2002年に行なわれている為、この調査はアメリカの内部において、ソンタグの立場が美術評論家に一般的に支持されたことを示している。

 

 さらにこのランキングは、国民国家の問題も提示している。アメリカにおけるユーゴスラビアについての議論は、ヨーロッパのものに比べあまり構築的ではなく、またそれほど学術的ではなかった。そもそも米国市民が旧ユーゴスラビアの複雑な民族状況を理解する過程に問題があった為、ソンタグの立場は合理的に見えたのであろう。しかしアメリカは世界の覇権国家である為、その評価は世界中で最も影響力のあるものとなった。

 

 ソンタグの友人であるベオグラード出身のアーティストであるマリーナ・アブラモビッチは、サラエボへ行き、かつ「ゴドーを待ちながら」を演出したソンタグの勇気を誇りに思っていた。[26]しかしながら、ザグレブ在住のアーティストであるサンヤ・イベコビッチは批判的であり、ソンタグが旧ユーゴスラビアの状況を理解しなかったと指摘し、彼女が1970年代にベトナムで行なった様に、状況を一層悪化させたと批判した。[27]

 

サラエボにおいては、サラエボ市民がNATOの介入によって助けられた経緯がある為、ソンタグおよび彼女の活動は地元住民によって大変敬われていた。

 

 

ネルミーナ・クルパビッチ(photo by Shinya Watanabe)

 

 ソンタグ演出による「ゴドーを待ちながら」を翻訳したネルミーナ・クルパビッチは、サラエボ内においては、彼女がサラエボへ文化を持って来た為、文化産業の多くの人々がソンタグを尊敬していると述べた。[28]サラエボのソロス現代芸術センター・ディレクターのドゥンヤ・ブラゼビッチや、ソンタグをサラエボに招いたニハード・クレセヴルヤコビッチおよびサラエボの多くの美大生は、皆同じ趣旨の事を述べた。[29]

 

ソンタグは「このおせっかいで知ったかぶった質問をする人達は、今サラエボにいるとはどういうことなのか全く理解していない。事実、文学や演劇がどうだろうと気にしない人たちなのだろう。サラエボの人々はみな現実逃避に役立つ娯楽を求めている、と言いたいのだろうが、当たっていない。他でもそうだが、サラエボでも、現実に対して自分が抱いている感覚が芸術によって肯定され、変容されることで、勇気を得たり慰められたりする人は少なくない。」[30]このサラエボの人々が彼らの生活、及び現実の生活を反映した文化および芸術を必要としていた、という彼女の意見は正確であった。

 

 

ポール・オースター原作の「最後の物たちの国で」上演のチラシ

 

 当時のサラエボで最も人気のあった演劇は、ポール・オースター原作であり、さらにボスニア紛争中に英語からボスニアの母語に翻訳された最初の本でもあった小説「最後の物たちの国で」であった。この小説の舞台は、路上生活者が溢れ、不法居住者達が荒廃した建物を占め、食物を求めて街をさまよう、そんな国である。自殺クラブは金のために死ぬ珍奇な方法を提供するが、金持ちは宝石と共に消えうせ、残された人々は、小さな現金下取りセンターがその日の盗みに対して与えた配当によって生き残る。この小説は、彼女の兄弟を見つけようとする若い女性アンナ・ブルームの苦境に焦点を当てている。彼女は最初、狂人とその妻と避難所を見つけるが、その後作家サミュエル・ファーとの短いロマンチックな恋愛を経験する。この小説はユーゴスラビア紛争の前に書かれたが、この小説の設定はゴドーを待ちながら同様、ボスニアの状況に類似していた。

 

しかしながら、サラエボまたはボスニア外部の旧ユーゴスラビア地域における人々の大半は、ソンタグに対し否定的な意見を持っている。旧ユーゴスラビアにおいて特定のある民族グループを支持する事は命取りになりえ、またその為、他のエリアにおける彼女への評判は芳しくない。

 

 

スロベニアの首都ルブリャナにある“セル“に書かれたグラフィティ

 

 スロベニアの首都リュブリャナの同性愛者コミュニティーにおいても、ソンタグの評判は低かった。ソンタグはフェミニストおよびレスビアンであり、また彼女が演出した「ゴドーを待ちながら」では、男性と女性の役割が混合されている。(付録S-1を参照)その為、ボスニアの外部であってもフェミニスト支持のリベラルなコミュニティーにおいて、彼女の行為を評価する人たちがいるかもしれない、と考えられた。リュブリャナには「セル(細胞)」と呼ばれるアバンギャルド芸術コミュニティーがあり、そこにはスロベニアで唯一の女性同性愛者向けのDJクラブがある。彼らは同性愛者の女優、ジャーナリストおよび音楽家のグループなのだが、そこにおいてもソンタグが好きだという人を見つけることは困難であった。そこでは一人、ソンタグの理論におけるコソボへの介入は支持しないが、ジジェクによって述べられた介入の理論を支持するものがいたが、ジジェクは新世界秩序(ニューワールドオーダー)そのものが我々が戦っているミロシェビッチやビン・ラディン、フセインなどの怪物を生み出しており、また私達はグローバル資本主義と戦う「第三の道」を創造する必要がある、と考えていた。 [31] [32]

 

フィリップ・ソレルスはル・モンド紙上に、アメリカの女性作家が「ゴドーを待ちながら」を上演したが、サラエボにて上演されるべき演劇はピエール・マリヴォーによる「愛の勝利」であったと述べている。[33]さらにこの言葉は、ジャン・リュック・ゴダールの映画「フォーエヴァー・モーツァルト」に現われる。一時ソンタグはゴダールの映画を「ラディカルな意思のスタイル」において高く評価したが、その後、彼女はゴダールによって批判の対象となった。

 

i. ソンタグへの平和賞授与と国民国家の関係

 

200310月、ソンタグはドイツ語圏の中で最も名誉ある文学賞の一つであるドイツ書籍平和賞を受賞した。[34]ソンタグは15,000ユーロ(200万円)を受け取り、そしてイラク戦争を含む米国の外交政策を非難した。しかし彼女は、NATOの空爆を支持した事が、イラク戦争の引き金となったアメリカのユニラテラリズム(単一行動主義)を引き起こした事に気付いていなかった。さらに、ドイツにとってイラク戦争に反対しつつNATOによる空爆を支持したソンタグは、平和賞を与えることによりドイツに支援されたクロアチアの独立がユーゴスラビア紛争を引き起こしたという事実を隠蔽し、ドイツの平和主義的な姿勢を内外に示すのにとって、便利な知識人であったのである。

 

ドイツがクロアチアとスロベニアの独立を承認した後、ドイツの外務大臣ハンス・ディートリヒ・ゲンシャーはユーゴスラビアにおける混乱に対する責任を取り、外務大臣のポストを辞任した。しかしながらドイツそのものは、クロアチアの承認が間違いであったと公式には認めていない。

 

20015月のエルサレム賞授与においても同様の事が伺える。この賞によってイスラエル政府は、世界の知的コミュニティーによるイスラエル支援を取り付ける為、平和活動家としてのソンタグの評判を利用しようとした。ソンタグがエルサレム賞を受賞する前には、もし彼女がこの賞を受賞すればソンタグがイスラエルを支持した事が明白となる為、彼女の元へ人権団体および左翼知識人等から多くの手紙が舞い込んだという。エルサレム賞が授与される記念スピーチの場で、エルサレム市長であったエフード・オルマートは国際的なジャーナリズムに対して憤慨した意見を述べ、さらにそもそもパレスチナ人がイスラエル・パレスチナ間の暴力を開始したのだと発言し、この事実が無視されていると主張した。[35]しかしながら、ソンタグはこの賞を受賞した際、彼女はイスラエルの外交政策を以下の様に非難した:

 

私はエルサレム賞を授与された事に感謝します。私はこれを、文学の冒険心に関わる全ての人の栄誉の為、私はそれを受理します。私はイスラエル・パレスチナ紛争のさなか、個々の声を発し、そして真実の多様性による文学を作り上げようと努力してきた作家および読者への敬意の下、これを受理します。私は平和の名、そして傷を負った怯えたコミュニティーの和解の下にこの賞を受け取ります。必要な平和。必要な譲歩そして新しき解決。必要なステレオタイプの緩和。必要な対話の持続性。私はこの賞  国際ブックフェアが後援しているこの国際的な賞  を何よりも文字の国際的な共和国の栄誉の機会として、受理します。[36]

 

こういった状況の為、特にアーティストが自身の属する国民国家の外部の問題に関し政治的なアプローチをした場合、こういったアーティストを自身の共同幻想を持った国民国家の内部で評価する事は非常に困難である。この複雑な世界においては、私達は複雑系によって芸術の価値を評価すべきである。

 

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[1] Sontag, Susan. Where the Stress Falls p300

[2] Sontag, Susan. Where the Stress Falls p313

[3] ニハード・クレセヴルヤコビッチ (メス劇場プログラム・マネージャー)インタビュー 2004112

[4] Sontag, Susan. Where the Stress Falls p304

[5] 高木徹著 「ドキュメント 戦争広告代理店 - 情報操作とボスニア紛争」p292

[6] Sontag, Susan. Where the Stress Falls p299

[7] Sontag, Susan. Where the Stress Falls p300

[8] スーザン・ソンタグ著 「この時代に想うテロへの眼差し」p130,139

[9] スーザン・ソンタグ著 「この時代に想うテロへの眼差し」p145

[10] Herman, Edward S. "Pol Pot And Kissinger: On war criminality and impunity" Z Magazine Sep 1997

[11] Weekly Die Zeit March 23 2000.

[12] Hedges, Chris. “Kosovo's Next Masters?” Foreign Affairs. May/June 1999 p26

[13] Hedges, Chris. “Kosovo's Next Masters?” Foreign Affairs. May/June 1999 p36

[14] Hedges, Chris. “Kosovo's Next Masters?” Foreign Affairs. May/June 1999 p38

[15] Hudson, Kate. “A pattern of aggression” The Guardian. Thursday August 14, 2003

[16] Stop the War against Iraq - Remember Yugoslavia -

[17] 千田善著 「なぜ戦争は終わらないか - ユーゴ問題で民族・紛争・国際政治を考える」p 197

[18] Hudson, Kate. “A pattern of aggression” The Guardian. Thursday August 14, 2003

[19] Hudson, Kate. “A pattern of aggression” The Guardian. Thursday August 14, 2003

[20] Grobe, Walter "Accusation of Rambouillet Lie: Twice as Justified!" Neue Einheit Online

[21] 大井択著 「続・『人道的介入』とは何か - 普遍主義とハイテク兵器による「ユーゴ空爆」を批判するために(上)」 グローカル55199/8/23)号

[22] Hudson, Kate. “A pattern of aggression” The Guardian. August 14, 2003

[23] Bourdieu, Pierre. Bensaïd, Daniel. Vidal-Naquet, Pierre and other leading French intellectuals “Academics Against NATO's War in the Balkans” Translated by Andreas Broeckmann Le Monde March 31, 1999

[24] “Berlin hearing for an international trial of NATO” Tanjug October 31, 1999

[25] The Visual Art Critic: A Survey of Art Critic at General-Interest News Publications in America by National Arts Journalism Program Columbia University 2002

[26] マリーナ・アブラモビッチ・インタビュー 20031220

[27] サンヤ・イベコビッチ・インタビュー 200416

[28] ネルミーナ・クルパビッチ・インタビュー 2004113

[29] ニハード・クレセヴルヤコビッチ ・インタビュー 2004112

[30] Sontag, Susan. Where the Stress Falls. p302

[31] 著者によるインタビュー 200414

[32] スラボイ・ジジェク著 「二重の脅迫に抗して」

[33]浅田彰著 『フォーエヴァー・モーツアルト』を観るために 『キネマ旬報』20025月上旬ゴダール特集号加筆修正版

[34] Sontag attacks U.S. in accepting book honor International Herald Tribune October 13,2003

[35]中山元 哲学クロニクル 150 (2001519日) ソンタグのイエルサレム賞受賞スピーチ

[36] Sontag, Susan "In Jerusalem (speech of the Jerusalem Prize for Literature)" May 21, 2001

(C) Copyright Shinya Watanabe

 

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