もう一つの万博プラットフォーム in New York: 2005年2月16日 at ニューヨーク大学アインシュタイン講堂

パネリスト

渡辺真也 (スパイキーアート キュレーター)
照屋勇賢 (アーティスト、沖縄)
Bozidar Boskovic (キュレーター、ベオグラード)
Vesa Sahatciu (キュレーター、コソボ・アート・ギャラリー)
Nebojsa Seric-Shoba (アーティスト・サラエボ)


プラットフォーム開始


渡辺真也、大阪万博の記録映画をバックに万博の歴史・機能について語る

 


自身の作品について語る照屋勇賢


話を聞き入るショーバとベサ

 


自身のサラエボでの体験を生かした作品について語るショーバ


西ヨーロッパのバルカン・アートへの影響について語るボシュコ

 


コソボの状況と現地のアーティストについて語るベサ


プラットフォーム参加者たち

 


共同討議の風景

 

沖縄=サラエボ=ベオグラード=コソボを、国民国家を超えて接続する (2005/2/18)

渡辺真也

沖縄=サラエボ=ベオグラード=コソボを、国民国家を超えて接続しようとする試みは、ひとまず成功を収めたと思う。お互い知らないパネリストが、国民国家という一つのテーマについてこれだけ多くコメントできるのは、やはり参加者の出身地における地域性の問題に終始している様に思える。

照屋勇賢氏の語った、着物作品「結ーい結ーい」のテーマである沖縄の辺野古に建設が予定されている米軍のヘリポートについては、アメリカ人の参加者全員にとって全く新しい情報であった様だ。紅型の着物の中において、ジュゴンの生息地を脅かす米軍のヘリコプターは、ジュゴンと同じ大きさで扱われている。全くサイズの違うものが作品の中で同様に描かれている、その中に照屋独特のまなざしが感じられた。また紅型という伝統工芸と現代美術の接続において、困難を感じつつも作品を制作していく照屋の姿は、プラットフォームに参加した、アーティストを志す学生にとっても大きな励みとなったことだろう。

サラエボ出身のアーティストのショーバは、民族的にとても混在した家族の出身であり、93年から95年にかけてのサラエボ包囲の際は、兵隊として最前線の塹壕戦にてセルビア軍に応戦していた。軍から休みが取れた際には、サラエボ市内のスタジオに戻り、しばらく作品製作をし、休みが終わったら前線に戻るという生活を送ったそうである。しかしその際、ショーバは精神的にかなりのダメージを受けたと彼は語った。

そんな彼はサラエボ周辺での塹壕戦の際に、塹壕を掘ってモンドリアンのブロードウェイ・ブギウギを作り始めた。戦争なんてクソくらえ、という強烈なメッセージであったのだが、それがボスニア軍部間で問題になり、ショーバは軍事裁判に掛けられたと言う。

ショーバの戦争を実地で体験した人物の話は、大変有意義であった。そしてそれは戦争を経験した事のない私達にとって、想像を超えたものであった。特に、それは沖縄を題材とする、沖縄返還後の美術を背負っている照屋勇賢に対して大きな影響を与えたのではないか、と私は思う。

セルビア人のボシュコは1995年、18歳の時にベオグラードを発ちパリへと美術史の勉強に行くが、その後アメリカへと渡り、修士過程を終えキュレーターとなった。パリへと渡った理由は、ボシュコが軍隊に召集され、前線で戦う事になるのを恐れた両親が、事態が悪化する前に海外へと逃れさせたのだと言う。その為、ボシュコはパリにおいては、戦時中加害者側と目されたセルビア人として色眼鏡で見られ、またそれは彼にとって大きなプレッシャーとなったと言う。その後アメリカに来てから美術史を専攻する際も、彼はバルカンの外部におけるバルカンに対するクリシェに対し、敏感に反応し続けていると言う。

ユーゴスラビア紛争中には海外に滞在し、戦争を体験しなかったベオグラード出身のセルビア人という彼のポジションは、マリーナ・アブラモビッチの立場と一致しており、事実マリーナとボシュコはその点で意気投合する場面が多いと言う。

ベサはコソボで唯一と言って良い現代美術のキュレーターだが、彼女はコソボ紛争勃発時の1999年、難民としてコソボの州都プリシュティナからニュージーランドへと渡った。その後ニュージーランドの大学にてアートヒストリーを専攻し、卒業後は1年半前にコソボに帰り、キュレーター活動を行なっていた。

コソボは旧共産主義の色彩とイスラム色が強く残る地域であり、また美術教育も大変体質が古く、99年までメディアアートが誕生しなかったという地域である。99年に誕生したコソボ最初期のビデオアート作品の一つであるLulzim Zeqiriによる「white map/blood to the knee」は、アルバニアの故事に由来した、グスラという弦楽器を演奏する男性の膝まで、血の様に染まった水が増えてくるという作品である。しかしあまりにもナショナルなテーマであった為、私にはあまり理解できなかった記憶がある。ベサは「コソボは現在新しいアイデンティティを模索している途中である」と述べているのが印象的であった。

プラットフォーム開始前、ベサとボシュコが会話している際、二人が常に英語で会話しているのが興味深かった。ベサはもちろんセルボ・クロアチア語を話せるのだが、彼女はそれをセルビア側、つまり支配者の言語と見なしている為、セルビア人のボシュコと話す時には英語を好んで使うのである。ベサの母親はボシュコと話す際にはセルボ・クロアチア語を話していたが、ベサの母親の心理的なゆとりは、年齢的なものから来ているのかもしれない、と漠然と感じた。

ベサは内戦勃発直前に、自身がセルビア人でない事から数ヶ月間高校に通えなくなる、という苦い経験をしている。向学心の強い彼女の事だから、それが彼女のセルビア嫌いの一つの理由なのだろう。

プラットフォーム終了後、皆で飲みにいったのだが、ショーバのサラエボでの従軍体験を真剣に聞いているボシュコの目からは、一筋の涙がつたっていた。ボシュコの知っている母国ユーゴスラビアはもう存在しない。彼がいなかった「そこ」で起こった出来事を聞いた彼の中に何がうずめいていたのか、想像するのは困難である。また、紛争体験者であるショーバの話から我々が学ぶべきものは、きっと沢山ある事だろう。

他者の経験、そして他者を理解する、というのが「もう一つの万博」のコンセプトである国民国家の解体と直結する。なぜなら、国民国家を形成するネーションの概念は、他者を強制的に排除して初めて完成するものであるからだ。他者理解はそう簡単ではない。自己の経験や、言語体系など、多くのものに寄るからである。

国民国家をクロスオーバーする、という「もう一つの万博」の形が、プラットフォームとしてNYで実現できたのは非常な喜びである。この調子で、日本で開催されるプラットフォームの企画も軌道に乗せれたら、と真摯に願う。

 

もう一つの万博展 in ニューヨーク
2005年8月15(月)60回目の終戦記念日 〜 9月10日(土)まで

セイラの新作"Sejla-san / セイラ 夢 / Sejla Dream"はここで見れます

もう一つの万博展 in 北九州
2005年6月18日 〜 7月1日

もう一つの万博関連レクチャー in 京都
もう一つの万博プラットフォーム in 東京
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(Copyright: Shinya Watanabe)

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