ベアテ・シロタ・ゴードン

ベアテ・シロタ・ゴードンは、ジャパン・ソサエティ、アジア・ソサエティのディレクターとしてアジアのパフォーミング・アーツ及びアジア美術を米国に紹介してきた第一人者。NYジャパン・ソサエティー・オブ・パフォーミング・アーツの初代ディレクター、ザ・アジア・ソサエティ・パフォーミング・アーツ・フィルム・アンド・レクチャーズのディレクターを歴任する。22歳のベアテは、ダグラス・マッカーサー総司令官によって1946年に作られた憲法起草会議の20人のメンバーのうちの一人となる。マッカーサー元帥は連合国軍総司令部の総司令官として会議を開き、占領下日本人の為の新憲法草案を書くように命令したのであった。

ベアテ・シロタは1923年ウィーンにて、父レオ・シロタと母オーギュスティーヌという、キエフ出身の両親の間に生まれた。両親とも1922年にオーストリア国籍を取得していたため、ベアテの国籍はオーストリアとなった。父レオ・シロタは「リストの再来」と呼ばれた国際的に著名なピアニストであり、1928年、レオは山田耕筰の招きにより、日本にて6ヶ月間に及ぶコンサートツアーを行う。その次の年の1929年、彼は再度コンサートに招かれ、さらにレオを上野音楽学校(現在の東京藝術大学)にて教授に招聘する。その際、シロタ家は日本へと移住し、東京の乃木坂近辺に居を構える。五歳半で来日したベアテはドイツ学校に入学。半年間滞在のはずが、レオの日本への思い入れの強さから、滞在を引き伸ばす。1936年、ドイツ学校がナチ化した為、ベアテはアメリカンスクール・イン・ジャパンに転校する。

シロタ家では、芸術家、日本在住または滞在中の西欧人、徳川家、三井家などアーティストやパトロンらが集まるサロンとなった。 ベアテはドイツ語、日本語、英語、ロシア語、フランス語らを話す友人とのやりとり、さらに家庭教師について学習することで、これらの言語を習得した。

1939年、アメリカン・スクールを卒業した15歳のベアテは、サンフランシスコ近郊オークランドの全寮制女子大学ミルズ・カレッジへ留学する。アメリカの様な民主国においても存在する女性差別の現実を学んだベアテは、女性の権利に関して自覚的となる。しかし1941年日本と米国の開戦により、両親との連絡が途絶えることとなった。

1943年ベアテはミルズ・カレッジを最優秀の成績で卒業後、1945年1月米国籍を取得。1943年から終戦まで、彼女は戦争情報局にあるFCC外国語放送情報サービスにて働いた後、タイム・マガジンにて職を得る。彼女は日本へと戻ることを希望していたが、占領下の国においては一般市民としての入国が不可能だと知らされる。ベアテは日本に帰国できる職を探した結果、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間人要員として採用されて、最初の民間人女性として戦後日本を訪れる。そして、ついに荒廃した日本において、両親と無事再会を果たす。

GHQにおいて彼女は民政局員となり、憲法草案を作成することになる。ベアテは人権小委員会にて女性の権利についての条項を書く役目に選ばれ、さらに1946年3月4日、彼女はアメリカ人と日本人官僚によって開かれたどの条項が最終原稿に含まれるかに関しての有名な秘密会議に参加する。この通常では考えについ文章は、女性に男性と全く同じ権利を与え、国民に世界情勢における平和的役割を果たすことを確認し、それは現在においても一切の変更なく、存続している。

約半世紀もの間、シロタ女史は彼女が憲法起草に加わったことを公表して来なかったが、1995年にいくつかの理由から、当時の様子についてレクチャーを行ったり、彼女の回想録「1945年のクリスマス」(柏書房)にて述べるようになった。世界情勢の緊迫さらに軍事紛争がエスカレートする状況において、ベアテ・シロタ・ゴードンは日本国憲法における女性の権利、そして平和主義の持つ意味を世界に発信すべく、多大なる努力を続けている。

ベアテとその両親、山田耕作と 1928年

シロタ家でのパーティ 1933年


ベアテ、ジャーマン・スクールにて 1936年


ベアテ、ミルズ・カレッジにて 1941年


戦争部署による身分証明書

ベアテ、GHQスタッフメンバーと一緒に 1946年


天皇裕仁が新しい日本国憲法を発布した際の
国会におけるGHQメンバーたち


ベアテ、1947年に日本を発ち、サンフランシスコへと向かう

パネル・ディスカッションのページへ戻る

アトミック・サンシャイン実行委員会のページへ戻る

ShinyaWatanabe.netに戻る