戦争の世紀からの脱却 - ヨーロッパ近代の超克[1]としての憲法第9 (12/8/2007)

 

渡辺真也

日本国憲法第9条をテーマとする美術展制作に当たって
敗戦後、大日本帝国憲法から日本国憲法へ
秘密裏に進められたマッカーサー草案
アトミック・サンシャイン会議とは?
9条は誰が発案したのか
9条の戦後における役割
第二次世界大戦に至ったヨーロッパの国家とその規定について
第二次世界大戦が生んだレヴィナスの他者の哲学
近代の問題として - ドイツにおける歴史家論争と日本における靖国論争
9条の21世紀における可能性

 

日本国憲法第9条をテーマとする美術展制作に当たって

 

日本国憲法は、アメリカ占領軍によって実質的に書かれた歴史がある。そして平和憲法として知られる日本国憲法第9条には、主権国家としての交戦権の放棄と戦力不保持が明記されている。

 

この世界的に見ても非常に珍しい憲法上の平和主義の規定は、アメリカのニューディーラーの理想主義が反映されており、平和主義を含んだ新憲法は、第二次大戦の苦しみを経験した当時の日本の一般市民に受け入れられ60年間改正されることなく今日に至る。しかし、冷戦の終結、アジアの不安定化とナショナリズムの高揚と共に、この平和憲法の基盤である第9条が、現在、その存在を問われている。

 

9条は、戦後日本の復興と再形成に多大な影響を与えたのみならず、60年間他国との直接交戦の回避を可能にし、直接交戦による死者を一人も出さないことに成功したが、日本の実質的戦争協力は、第9条が保持される限り、ねじれた状況を生み出し続ける。この日本の特異な磁場から、多くのアーティストたちは取り組むべき新たな課題を発見し、彼らの芸術に表現してきた。その中には、日本の戦後やアイデンティティ問題などをテーマとした、また9条や世界平和をテーマとした作品が少なくない。

 

美術展覧会「アトミック・サンシャインの中へ - 日本国平和憲法第9条下における戦後美術」は、日本国憲法改正の可能性を目前とする今、戦後の国民・国家形成の根幹を担った平和憲法と、その影響下に制作された戦後美術を検証する試みである。 

『憲法改正要綱』

[昭和2128]
佐藤達夫関係文書 22
国立国会図書館

敗戦後、大日本帝国憲法から日本国憲法へ

 

日本政府は、連合国軍最高司令官総司令部(通称GHQ)側から大日本帝国憲法の改正が求められるだろう、と敗戦直後から予想していた。1945104日、GHQ総司令官であるダグラス・マッカーサーは東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に憲法改正を示唆し、その後近衛は、憲法改正の調査を開始した。それと平行して109日、新内閣を組織した幣原首相は、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始した。

 

しかし近衛らの調査に対しては、近衛自身の戦争責任や、閣外でありながら憲法改正作業を行うことに対する反対が強く、結局頓挫し、その後憲法改正作業は、幣原内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることとなる。松本委員会は、19451027日から194622日にかけて開催され、194619日には『憲法改正私案』を提出した。

 

秘密裏に進められたマッカーサー草案

 

GHQは当初、憲法改正については過度の干渉をしない方針であったが、1946年初頭から、GHQは民間の憲法改正草案、特に憲法研究会の『憲法草案要綱』に注目しながら、日本の憲法に関する調査・研究の動きを活発化させた。

 

当時、マッカーサーが日本の憲法改正についていかなる権限を持つのか、という法的根拠がGHQ内で問題となっていたが、GHQ民政局長であったコートニー・ホイットニーは、日本の憲法構造に対して、マッカーサーが適当と考える変革を実現するためにはいかなる措置をも取りうる、というレポートを提出している。これは226日に迫ったソ連やオーストラリアを含む極東委員会の発足後は、マッカーサーの権限が無制限でなくなることを示唆したものだった。

 

また、このレポートが提出されたのと同じ日である21日付の毎日新聞が、『松本委員会案』なるスクープ記事を掲載した。この記事に載った『松本委員会案』とは、松本委員会に提出された草案の中では比較的リベラルなものであったが、ホイットニーはその記事を、それを極めて保守的な性格であり、世論の支持を得ていない、と分析した。そこでGHQは、このまま日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論から天皇制の廃止を要求される可能性があると判断し、GHQが草案を作成することを決定した。

 

23日、マッカーサーはGHQが憲法草案を起草するに際して守るべき三原則、すなわち天皇は国の最上位にあること、戦争の放棄、封建制度の廃止、を制定し、憲法草案起草の責任者とされたホイットニーに示した。この三原則を受けて、GHQ民政局には憲法草案作成のための委員会を設置され、24日の会議で、ホイットニーはすべての仕事に優先して極秘裏に起草作業を進めるよう民政局員に指示した。

 

起草にあたった民生局員25人のうち、4人には弁護士経験があったが、憲法学を専攻した者は一人もいなかった。その為、憲法研究会など日本の民間憲法草案や、世界各国の憲法が参考にされた。民政局での昼夜を徹した作業により出来上がった試案を元に原案が作成され、212日に草案は完成、2 13日、当時の憲法としては大変リベラルであった『マッカーサー草案』がGHQ側から日本政府に提示された。 

Constitution of Japan[GHQ草案]

[昭和21213]
佐藤達夫関係文書 31
国立国会図書館

アトミック・サンシャイン会議とは?

 

展示タイトルに付けられているアトミック・サンシャインとは、1946213日、GHQのホイットニーが、吉田茂とその側近であった白洲次郎、憲法改正を担当した国務大臣の松本烝治らと行った憲法改正会議のことである。

 

213日に日本政府に提示された『マッカーサー草案』は、先に日本政府が28日に提出していた松本試案に対する回答という形で示されたものであった。しかし提示を受けた日本側は、GHQによる草案の起草作業を知らず、この全く初見の『マッカーサー草案』に驚いた。

 

ここで、ホイットニーは保守的な松本試案を一蹴し、マッカーサー草案を日本の状況が要求している諸原則を具体化した案で、マッカーサーの承認済みのものだと説明した。その後、アメリカ側が公邸の庭に下がり、英文を読む時間を日本側に与えたのだが、その際、英語に長けた白洲次郎が少しでも交渉を有利にしようと、米軍の爆撃機が公邸をゆさぶる中、庭に出てアメリカ人のグループに加わっていくと、ホイットニーは白洲にこう言った。

 

We have been enjoying your atomic sunshine.

 

この一言で、ホイットニーは日本側に、戦争の勝者・敗者を明確に思い起こさせ、さらにマッカーサー草案に示された諸規定を受け入れることが、天皇を「安泰」にする最善の保障であり、もし日本政府がこの方針を拒否するならば、マッカーサーは日本国民に直接この草案を示す用意がある、と発言した。その後、この憲法改正における日本国とGHQの会議は「アトミック・サンシャイン会議[2]」と呼ばれるようになる。このGHQ草案に添った形で修正した内閣案が、 最終的に1946113日に日本国憲法として公布された。


『憲法改正草案要綱』

[昭和21年3月6日]
佐藤達夫関係文書 46
国立国会図書館

9条は誰が発案したのか

 

9条を含む新憲法はアメリカ占領軍によって実質的に書かれたが、9条のアイディアがどこから来たか、ということに関しては諸説あり、そのうち2つの説が有力である。GHQ総司令官のダクラス・マッカーサーである、という説と、当時の首相であった幣原喜重郎である、という説である。

 

マッカーサー説としては、マッカーサー及びアメリカ側が、日本の再軍備化に対して危機感を抱いており、それを押さえる為にも、憲法の中に平和主義の規定を盛り込んだ、というものである。マッカーサー三原則に含まれる戦争の放棄条項は、以下の通りである。

 

2.国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理念に委ねる。日本が陸海軍をもつ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない[3][4]

 

しかし、幣原説の側としては、これより前の124日に、幣原首相はマッカーサーを訪ねており、その会談の記録が、幣原が枢密顧問官であった大平駒槌に対して語った内容を、大平の娘である羽室ミチ子が父から聞いて書き残されている。それによると、

 

(幣原は)世界中が戦力を持たないという理想論を始め戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考えると話したところがマッカーサーは急に立ち上がって両手で手を握り涙を目にいつぱいためてその通りだと言い出したので幣原は一寸びつくりしたという。・・・マッカーサーは出来る限り日本の為になる様にと考えていたらしいが本国政府の一部、GHQの一部、極東委員会では非常に不利が議論が出ている。殊にソ連、オランダ、オーストラリヤ等は殊の外天皇というものをおそれていた。・・・だから天皇制を廃止する事は勿論天皇を戦犯にすべきだと強固に主張し始めたのだ。この事についてマッカーサーは非常に困ったらしい。そこで、できる限り早く幣原の理想である戦争放棄を世界に声明し、日本国民はもう戦争をしないという決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとする事を憲法に明記すれば列国もとやかく言わずに天皇制へふみ切れるだろうと考えたらしい。・・・これ以外に天皇制をつづけてゆける方法はないのではないかと言う事に二人の意見が一致したのでこの草案を通すことに幣原も腹を決めたそうだ[5]

 

また、マッカーサー自身も1964年、自らの著書『回想記』の中で、戦争放棄条項の発案は幣原であったと語っており[6]、以上の理由から、9条の発案者として幣原首相だとする説がある。しかし、後に首相となる吉田茂は、1957年に出版された『回想十年』にて幣原説を否定しており、あれはやはりマッカーサー元帥が先に言い出したことのように思う、と述べている。

 

9条の戦後における役割

 

日本の戦後を考えた際、9条を保持したことが、日本の戦後の経済的繁栄に繋がっていった、という事実がある。しかし、その経緯は複雑なものであった。

 

日本は1951年のサンフランシスコ講和条約において、米国による占領から独立国となった。このサンフランシスコ講和条約では、当時の中華民国は参加しているものの、中華人民共和国、さらに戦時中であった韓国と北朝鮮は参加しておらず、これが戦後の日本の戦争責任問題となって大きく後世に残る問題となってしまった。しかし、日本が9条によって宣言をした「戦争をしない」というメッセージは、日本が侵略したアジア諸国に対して、少なからず謝罪の意味が含まれていた。

 

この講和条約と同日、日米は安全保障条約を結んだ。それ以降、9条の存在は、日本がアメリカ軍によって守られることによって成立する、というさらに捩れた状況を生み出した。日米安保と9条がセットで議論されるのは、こういった経緯からである。

 

さらに朝鮮戦争の勃発後、日本の民主化・非軍事化に対するアメリカの政策転換(逆コース)から、日本は1950年には警察予備隊、1952年には保安隊、1954年には自衛隊を組織することになる。さらに53年の訪日したニクソンは、9条は間違いであり、日本は改憲すべきだ、と述べている。

 

保守政権による「逆コース」や改憲に対抗する為、1951年、日本社会党は『護憲と反安保』を掲げ右派・左派が統一し、日本最大の政党となった。この日本社会党の統一に危機感を覚えた財界からの要請で、当時あった日本民主党と自由党が統一、ここに自由民主党が結党した。これにより、「改憲・保守・安保護持」を掲げる自由民主党と「護憲・革新・反安保」を掲げる日本社会党の二大政党制、55年体制が誕生し、以降1993年まで継続することとなった。

 

さらに第二次大戦後、冷戦構造の延長線上にて朝鮮戦争、さらにベトナム戦争が発生した際、日本は9条を持つことで、直接派兵を避けつつ、さらにアメリカに間接的協力をすることで、経済的恩恵を受けて来た。しかし、日本本土及び沖縄は米軍の中継基地として間接的な戦争協力を担っていると国内外から批判され、日本国内では反安保を巡り、激しい闘争が繰り広げられた。また湾岸戦争の際には、日本は9条を持っている、ということを盾にPKOへの派兵を拒む日本の姿勢は、国内外から批判の的ともなった。それと同時に、日本は9条を持つことにより、経済大国でありながら軍事産業が肥大化しない、という例外的な経済発展モデルを生んだ。

 

しかし、私がここで特に注意して考えたいのは、憲法第9条それ自体が抱える「他者性」である。日本国憲法は第二次大戦後の憲法の特徴とも言える、国家主権の絶対化の否定または憲法の国際化という視点を備えているにも関わらず、こうした理念の実現を国家対国家の対決という、極めてナショナルな視点から考察されて来たように思われる。日本のネーション規定をしたのは占領軍であるアメリカであり、その9条のメッセージが向けられた先は、日本が侵略したアジア諸国であったはずだ。

 

だから私は、この問題を日本の国内問題としてではなく、世界の問題として考えてみたい。憲法に「戦えない」、という宣言を他者に向かって訴えることは、一体どういった意味を持っているのだろうか?

 

第二次世界大戦に至ったヨーロッパの国家とその規定について

 

ナポレオン戦争以降のヨーロッパにおける近代化の過程において、国民国家が創造され、その国民を意味するネーションの規定として憲法が用いられてきた経緯がある。さらにその思想が、その結果生まれた植民地主義を通じてアジアに輸出されてきた歴史がある。

 

国家という概念について、マックス・ヴェーバーは国家を暴力行使の手段によって定義すべきだ、と述べている[7]。ヴェーバーは、暴力行使という「手段」の独占をした政治団体の事を「国家」と位置づけており、国家は秩序の補償の為に暴力を使用するのである。すなわち、国内の問題は犯罪として、国家権力の下に裁かれるのだが、ヴェーバーは、この暴力行使の独占というメカニズムが、近代化のプロセスにおいて完成された、と指摘している。

 

またカール・シュミットは、政治的なものにおいては、敵と友の区別が固有の指標となる、と述べ[8]、さらに戦争は、他者の存在そのものを否定する敵対より生じる、と述べている。すなわち、戦争は敵対によって引き起こされるのだが、国家という暴力行使の独占の埒外にある他者を認めない、すなわち他者の否定という暴力が発生した際、その暴力を独占している政治団体である国家同士の戦い、すなわち戦争が引き起こされるのである。そして、国民国家という近代化のプロセスにおいて暴力行使のメカニズムが完成された結果、不可避的に引き起こされたのが、二つの世界大戦であった。

 

第二次世界大戦が生んだレヴィナスの他者の哲学

 

戦争機械が国家を乗っ取ってしまうことによって生まれたファシズムの結果、ホロコーストという悲劇を引き起こしたヨーロッパでは、他者の否定という暴力に対する再考から、レヴィナスに代表される他者の哲学が生まれた。レヴィナスの他者の思想は、徹底的に他者の思想を欠いたホロコーストという暴力を体験した者だけが持ちえた、ヨーロッパの戦後思想であったと思う。この他者の哲学は、ハイデガー的な暴力的存在論を廃し、倫理的なるものを、再度哲学の内部に持ち込んだ、という点において重要である。

 

レヴィナスは、戦争の可能性が永続することを見て取るところに聡明さがあるとし、さらに戦争とは誰も距離を置くことができない、ということから、戦争はむしろ<同>の同一性を破壊してしまうもの、としている。

 

哲学的な伝統にとって<同>と<他>のあいだの相克は、<他>を<同>に還元する観想によって解消されている。具体的に言えば、国家という共同体が解決してきたのである。けれども国家にあっては、匿名の権力―それが了解可能な対象であるとしても―が存在することで、《私》は全体性からこうむる専制的な抑圧というかたちの戦争をふたたび見出すことになる[9]

 

またレヴィナスは、他者を存在させるには、語りの関係が必要であると指摘し、そして語りによって正面から<他者>に接近することを、正義と呼んでいる[10]。さらに、<他者>の比類のない現前は、私が<他者>を殺すことはできないという倫理的な不可能性のうちに書き込まれている、と述べている[11]

 

<私>と、それによって<私>が生きるものとのあいだには、<同>を<他者>から分離する絶対的な隔たりはひろがってはいない。・・・存在することのいっさいの様式が<私>へと、享受の幸福のなかで不可避に構成される主体性へと回帰するけれども、そのことによって絶対的な主体性、<私ではないもの>から独立した主体性が創設されるわけではないのである[12]

 

レヴィナスによれは<他者>の力は、そもそものはじまりから道徳的なものなのであり、戦争を支えているのは<他者>との非対称的な関係である、そして平和とは私の平和でなければならないのであり、それは一箇の<私>から発し<他者>へと向かう関係、渇望と良さにおける平和でなければならない[13]、と述べている。

 

近代の問題として - ドイツにおける歴史家論争と日本における靖国論争

 

戦後における暴力と他者の関係の延長線上に、二つの興味深い史実がある。侵略国であり敗戦国であるヨーロッパにおけるドイツとアジアにおける日本において、似たような大論争が発生しているのである。ナチスの犯罪は相対化できるか、というユルゲン・ハバーマスとエルンスト・ノルテに代表される「歴史家論争」と、日本の為にと信じて死んでいった英霊を奉る靖国神社への参拝を肯定できるか、という高橋哲哉と加藤典洋による「靖国論争」である。

 

1986年初夏から始まった「歴史化論争」は、フランクフルトで行われる予定であったノルテの講演内容のテクストと、アンドレアス・ヒルグルーバーの著書『ふたつの没落』に対するハバーマスによる批判から始まった[14]

 

特にノルテは、アウシュヴィッツは伝来の反ユダヤ主義に由来するというよりも、ロシアのボルシェビキ革命への反動、そのコピーであり、そういった悲劇は人類の歴史においてスターリンの粛清、ポル・ポトの大虐殺と比較しうる、生じざるを得ない運命的なものであると主張した[15]。すなわち、ナチスの犯罪を少しでも相対化し、ドイツ国民の誇りを維持しよう、とする保守派の動きと言えよう。

 

それに対しハバーマスは、ノルテらを歴史修正主義と批判し、西ドイツを西側から離反させない唯一の愛国主義は、(連合国側によって書かれた)憲法に拠る憲法愛国主義であるとし、諸々の普遍主義的な憲法原理への信念にもとづく忠誠は、ドイツ人の文化国家のなかでは、残念ながらアウシュヴィッツの後になって-そしてそれを通じて-初めて形成され得たと主張した[16]

 

この一連の大論争を通じて、歴史家は、ナショナル・アイデンティティの担い手なのか、我々が得ようとしているのは、憲法を嗜好する憲法愛国主義なのか、それとも国民意識を嗜好する国民愛国主義なのか、歴史は、政治的論争の道具として悪用されているのではないか、歴史学は歴史化されるべきなのか、それとも道徳化されるべきなのか、など多くの問いが生まれた。

 

それより遅れること約10年、日本で繰り広げられたのが靖国論争である。1999年出版の『敗戦後論』にて、加藤典洋は戦後の日本では、憲法の押し付けに始まる「人格分裂」、さらにその根源に「死者の分裂」が存在しているとし、自国の戦死者300万人への靖国神社への弔いが成立して初めて、アジアの非侵略国の犠牲者2000万人への謝罪をする主体を立ち上げることができる、と主張した[17]。それに対し高橋哲哉は『戦後責任論』にて、自国の死者を先に置くのではなく、汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けること、すなわち自国の死者をも含む侵略戦争の全ての責任を、常に今の課題として意識することが、日本の倫理的・政治的可能性を開く、と反論した[18]

 

ここで一つ言えるのは、歴史化論争も靖国論争も、もはや純粋な論理によって解決する、という論争ではない、ということである。ここでハバーマスや高橋哲哉が述べているのは、レヴィナスと同じく倫理及び他者の問題である。そして、この倫理的なものを設定することが、他者について語りかけることと一致するのではないだろうか。

 

9条の21世紀における可能性

 

9条は「他者」を前提とした「自己」に対するネーション規定であり、近代の構造を超克した、前代未聞の宣言である。9条の持つ、「戦えない」という「日本人」へのネーション規定は、理想主義者である「アメリカ人」ニューディーラーという日本人にとっての「他者」によって規定され、そして「戦えない」というメッセージは、「日本」の外部、すなわち「他者」に向かって述べられている。つまり、通常のネーション規定とは全く違った形で、日本人というネーションが規定されており、これはグローバルな広がりを持っている。

 

近代の国民国家は、30年戦争の反省から、内戦を防ぐために敵対概念を明確化することに努め、それが憲法、すなわちネーション規定にも現れて来たのだが、これだけグローバル化が進んだ現代において、外国人を敵対化する、すなわち他者の存在そのものを否定して敵対することはもはや不可能である。他者の存在そのものを否定して敵対するのではなく、他者の存在を認め、国権の発動としての戦争を放棄することを自らの憲法の中において宣言することが、暴力の独占機関としての国家のメカニズムを完成させた近代を乗り越えることに繋がらないだろうか。

 

9条は、「あなた」と「私」は、「同じ人間」であり、私は「同じ人間」である他者、すなわち「あなた」を傷つけない、という、「日本」国民の宣言なのである。これは、完全にヨーロッパ近代を超克した、かけがいのない理念であり、これこそ、21世紀を戦争の世紀から脱却する為の可能性ではないだろうか。

 

理想を述べるのは芸術家の仕事である。私は芸術に携わる者として、この「9条」という近代の外部にある理想を、日本の、アメリカの、アジアの、さらに世界中の人たち全員で芸術を通じて考え抜きたいと思う。そしてこの展示は、まず始めにその目的とも言える、日本国の他者とも言える会場において開催する。なぜなら、9条は他者とのコミュニケーションによって、初めて発動するからだ。

 

アトミック・サンシャインの中へ、一歩足を踏み入れて、考察してみようではないか。複雑な歴史的状況を紐解き、憲法第九条が戦後美術にどんな影響を与えたのかを考察することが、キュレーターとしての私の、今回の展示テーマである。  

 


[1] 「近代の超克」と言うと、西田幾多郎ら京都学派のメンバーを中心に雑誌『文學界』が1942年に開いた座談会や五族協和などのスローガンが思い出されるが、私は「近代の超克」という問いの立て方そのものは間違っておらず、戦前の『近代の超克』の問題を、戦後日本が本質的に越えていないことが問題だと考えている。

[2] ダグラス・ラミスは著書『影の学問・窓の学問』の「原子力的な日光の中のひなたぼっこ」において、ホイットニーのアトミック・サンシャインの発言に関し、こう述べている。「ホイットニーは日本人にたいして、この新憲法が論拠や論証に裏付けられたすぐれた思想であることだけをのみ込ませようとしているのではない。この草案は、世界史における最大の、しかももっとも恐るべき権力、原子爆弾という権力によっても裏付けられているのだ」。

[3] 小西豊治 『憲法『押し付け』論の幻』 講談社現代新書P12-13

[4] また著者は、日本国憲法の起草メンバーであるベアテ・シロタ・ゴードンの証言により、ここにおける「さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも」という箇所は、ホイットニーと一緒に草案作成に関わったケーディスによって草案作成中に削除された、という事実を確認した。

[5] 憲法調査会 『憲法制定の経過に関する小委員会第四十七回議事録』大蔵省印刷局、1962

[6] マッカーサーが9条の発案者でありながら9条を幣原が作った、と1964年に出版された回想録の中で述べたことに関し、袖井 林二郎は著書『マッカーサーの二千日」において、朝鮮戦争の勃発に伴いマッカーサー自身が決めた平和主義の原則を自身で修正しなくてはならないという不名誉な状況において、9条の発案者は幣原であった、ということにしたのではないか、と述べている。

[7] マックス・ヴェーバー『社会学の根本概念』 清水幾太郎訳、岩波文庫、P88-89

[8] カール・シュミット 『政治的なものの概念」 田中・原田訳、未来社、P14

[9] レヴィナス 熊野純彦訳 『全体性と無限』(上) P71

[10] レヴィナス 熊野純彦訳 『全体性と無限』(上) P128

[11] レヴィナス 熊野純彦訳 『全体性と無限』(上) P163

[12] レヴィナス 熊野純彦訳 『全体性と無限』(上) P286-288

[13] レヴィナス 熊野純彦訳 『全体性と無限』(下) P271

[14] J・ハバーマス/E・ノルテ他 『過ぎ去ろうとしない過去 ナチズムとドイツ歴史化論争』徳永恂ほか訳  P234

[15] 『過ぎ去ろうとしない過去 ナチズムとドイツ歴史化論争』 P9-34

[16] 『過ぎ去ろうとしない過去 ナチズムとドイツ歴史化論争』 P68

[17] 加藤典洋 『敗戦後論』 P104-119

[18] 高橋哲哉 『戦後責任論』 P210-219