セイラ・カメリッチ (サラエボ) Go to Sejla Kameric's Homepage

1. ボスニアン・ガール
2. Basics
3. HomeSICK
4. イマジン
5. 1ヶ月間のアートインレシデンスによるオリジナル作品「Sejla-san / セイラ 夢 / Sejla Dream」

参考 1.EU/Others 2. フォーチューン・テラー

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1. ボスニアン・ガール

“落書き「歯がない?ヒゲ面?ウンコくさい?それってボスニアン・ガールだ!」は、あるオランダ人兵士によって94年から95年にかけてスレブレニツァ地方のポトツァリにある兵舎の壁に書かれたものです。オランダ王室陸軍は、国連平和維持軍UNPROFORの一部として、1992年から1995年まで、ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァ安全地帯の保護を任されていました。“

1990年代のユーゴスラビアほど、国民国家の枠組みの問題に直面した地域はないでしょう。ボスニア紛争はとても複雑な戦争であり、知識人の間でもボスニア紛争は内戦かどうかで議論が割れる程でした。ユーゴスラビアについて考える事は、ポスト国民国家の世界について考えるヒントを与えてくれます。

残念な事に、セイラ・カメリッチは父親をボスニア紛争で亡くしています。戦争問題の難しさに直面した多くのアーティストは、ナショナリストになってしまったり、またアドルノが言った様に本当に作品を作る事を辞めてしまいました。しかし、多くの男性アーティストが作品作りの困難さに直面している間に、カメリッチはそのトラウマを美しい作品に軽やかに昇華してみせます。

1993年の春、国連はムスリムの為に6つの安全地域、すなわち国連平和維持軍が保護を担当する町を設立します。これらの町はサラエボ、ビハチ、ツズラ、ゴラジデ、スレブレニツァとゼパでした。1995年5月、再開されたセルビア側によるサラエボ空爆は、NATOによるセルビア軍への空爆という報復に遭います。その後、セルビア側は350人以上の国連平和維持軍の兵隊を人質に取りますが、彼らは長期間の交渉の末、解放されます。7月にはセルビア軍はスレブレニツァとゼパを侵略します。スレブレニツァにおいては、彼らは、NATOの空爆援護を求める(この時、空爆は実現しなかった)450人のオランダ兵の目の前で、約7000人のムスリム男性や子供などを虐殺しました。この事件以降、国連とNATOはこういった事件が発生した際に、紛争を終わらせる為により力に頼った努力をする様になりました。

この作品ボスニアン・ガールはパブリック・アート・プロジェクトです。このイメージは新聞や雑誌に掲載され、またポストカードとして町に出回ります。この作品を日本という、ヨーロッパから遠く離れた完全な中間地点で展示する事には、特別な意味がある事でしょう。

 

2. Basics

BASICS

ある少女のお話と彼女の夢

昔々、と言ってもそんなに古くない昔に、美しい夢を見た美しい少女がいました。
この夢では、彼女は欲しいと思ったものを全て手に入れる事ができました。
パンから始まって、そして水、電気が手に入りました。
これらの夢で、彼女はアートを作る事ができたのです。
そして、この少女は成長し、アーティストになりました。
彼女は未だに美しい夢を見続けています。
この夢の中で、彼女はずっと幸せに暮らしました。


セイラ・カメリッチは戦時下のサラエボに育っており、3年半に渡るサラエボ包囲と爆撃を経験しています。この彼女の生い立ちはアート作品に対する理解や実践に非常に大きな影響を与えています。

サラエボ包囲の間、人々は電気や食料、飲料水など生活の必需品の不足に悩んでいました。戦時下ではアート作品を作る余裕はありませんでしたが、彼女はこの生活に必要な基礎を絶対に忘れたくない、と思い、作品に反映させようと思い続けます。結果、戦後の2001年にこの作品「Basics」が完成しました。

3. HomeSICK


セイラ・カメリッチはムスリム系ボスニア人であり、そういった背景が彼女をメッカの方向に対して敏感にさせています。


カメリッチのHomeSICKと一般的なキブラ

作品HomeSICKはカメリッチによる終わりのなりプロジェクトで、彼女はサラエボの外にいる時、常に公共のスペースや半公共スペースのどこかにこの矢印を展示しています。この展示アイディアは、ムスリムの日常生活で使われるキブラと呼ばれるお祈りの為にメッカの方向を知る矢印から着想を得ているのですが、カメリッチのキブラは彼女の故郷であるサラエボを指しています。 この作品はセイラ・カメリッチがHomeSICKを作成中にロングマンアメリカ英語辞典でhomesickという言葉を引いた時に、以下の文章を見つけた事に刺激されて作ったものです。

* home-sick, feeling sad because you are away from your home:
* ホーム・シック、あなたの家から離れている事で悲しくなること:
On her first night at camp, Sheila felt very homesick for her family.
キャンプでの初日、セイラは家族を思いとても悲しくなった。
- Longman Dictionary of American English
- ロングマンアメリカ英語辞典

この引用では、セイラはボスニアとアメリカにおける言語構造と社会構造の違いを利用する事によって、自己の姿を二重写しにしています。すなわち、英文の中で現れるキャンプはアメリカ人のレジャーとしてのキャンプなのですが、戦時下のボスニアではそれは強制収容所としてのキャンプ(concentration camp)、または難民収容所としてのキャンプ(refugee camp)でもありえるのです。英文に現れるセイラ(Sheila)はつかの間のホームシックを経験しているのですが、ボスニアの母語で理解されるセイラ(Sejla)のホームシックは深刻なものなのです。

さらに、この作品はhomesick と呼ばれているのではなく、homeSICK、つまりホームがシック、故郷が病んでいるのです。彼女は遠くから、病んでいるサラエボの事を思っています。また、このインスタレーション風景では、キブラ自身が窓の反射に映りこんでおり、彼女が自己を社会的相対性に配置する事を忘れていない、という事も感じさせてくれます。

 

4. イマジン


Imagine, 2004 Color video, PAL, 2 min

”想像してごらん、彼らがゴミの谷を掘っているのを。 何人かがゴミの谷を掘っているのを。

想像してごらん、私の谷とゴミを。想像できますか?”

 

5. 1ヶ月間のアートインレシデンスによるオリジナル作品「Sejla-san / セイラ 夢 / Sejla Dream」

キュレーターの渡辺真也は、カメリッチに一ヶ月間日本に滞在し、この「もう一つの万博」の為のオリジナル作品を作る様、依頼しました。その結果出来上がった作品「Sejla-san / セイラ 夢 / Sejla Dream」を、日本とニューヨークにおける展示に出品する予定です。

 

参考:1.EU/Others

これはフランチェスコ・ボナミ、オル・ブーマン、マリア・フラバイエーバとキャサリン・ロンバーグがキュレーションした、2002年スロベニアの首都ルブリャナで行われた「マニフェスタIII」の展示風景です。スロベニアはユーゴスラビアから1991年に独立した国ですが、独立以降、スロベニア市民はもはやバルカン市民としてではなく、ヨーロッパの文化的な市民であると主張し続けました。また2000年は、スロベニアがEUのメンバーとして承認されるという出来事があり、スロベニアにとって重大な年でした。

ルブリャナの中心街には2つ橋が架かっているのですが、カメリッチは、メインの橋の方に「EU」、もう一方の橋の方に「Others」という空港のパスポートコントロールの看板を設置しました。新通貨ユーロのデザインである橋は、国家の架け橋、また文化の融合のシンボルとされています。しかし、1980年代に起こったスロベニアへの西ヨーロッパからの資本の流入は、結果として旧共産圏としてのユーゴスラビア国家の崩壊を早める結果となってしまいました。この看板を使う事により、カメリッチは共産主義からヨーロッパの資本主義国家へと移行するスロベニアを描く事に成功しました。

 

2. フォーチューン・テラー

彼女は西ヨーロッパの中華料理店で食事をした際に、”あなたは決して列の最後にいません。あなたは常に先を行っています!ラッキーナンバー 9, 21, 30,31,32,33”と書かれたフォークーンクッキーのメッセージを見つけます。その後、彼女はこのメッセージを拡大し、旧ユーゴスラビアのいろいろな所に張り出します。

一度彼女はこのメッセージをサラエボにあるオーストリア大使館に張りました。ユーゴスラビアでは戦時中、多くの人々が難民となり、彼らは他のヨーロッパの国へ入国しようと試みましたが、ヨーロッパの多くの国は難民の受け入れに難色を示しました。そんな事情もあり、オーストリア大使館の前には常にビザを求める人、さらには通常の入国を待つ人の列がありました。しかしならが大使館に入る事ができる人の数は限られており、大使館に入館できる人たちはくじ引きで決められていました。そこでカメリッチはこのフォーチューン・クッキーのメッセージを拡大し、大使館の前に張り出したのです。このメッセージの下には、常にくじ引きの結果を待つ人たちに列がありました。

また彼女は同様のメッセージを利用し、避難所でも展示を行いました。

 

(C) Copyright Shinya Watanabe

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